田中 鉄二 准教授

摂南大学 経済学部 経済学科

金融緩和とコロナ禍で始まっていた世界の食料危機
ウクライナ危機で加速

FLOW No.99

田中 鉄二
Profile
たなか・てつじ 2000年上武大学経営情報学部経営情報学科卒。02年筑波大学第一学群社会学類経済学専攻卒。 05年東京大学大学院農学生命科学研究科修士課程修了。12年ロンドン大学(東洋・アフリカ研究)博士課程修了。09~10年政策研究大学院大学客員研究員。12~14年英国アバディーン大学特別研究員。14~16年米国メリーランド大学カレッジパーク校研究員。17年摂南大学経済学部講師。22年より現職。スコットランド政府の食料政策アドバイザーやチリ政府の環境政策コンサルタントなども歴任。研究分野は食料安全保障、食料自給率 、経済政策モデリング。著書に『Risk Assessment of Food Supply: A Computable General Equilibrium Approach』(Cambridge Scholars Publishing、2012年)。Ph.D. (Finance and Management)。埼玉県出身。

どうなる日本の食料安全保障

ロシアによるウクライナ侵攻が世界の食料事情にも大きな影響を与えています。ロシア南西部からウクライナに広がる「欧州のパンかご」。そこからの小麦は世界の輸出量の3割を占め、それがストップしたのです。中東を中心に世界的に小麦などの価格が急騰。ロシアは水産物など他の食料の大きな生産地でもあり、日本でも食品の値上げラッシュが続いています。コロナ禍のパンデミックも農業生産に大きな影響を与えています。食料自給率アップが課題の日本の食料安全保障はどうなるのでしょうか。食料安全保障や食料自給率を研究する摂南大経済学科の田中鉄二准教授は、海外の政府の食料政策のアドバイザーなども歴任し、世界の食料事情に精通しています。田中准教授に、ウクライナ危機が世界の食料事情に与える影響、日本の食料安全保障への影響と政府が今後どう対応すべきか、消費者の私たちが備えるべきこと、などを聞きました。




食料安全保障(以下、食料安保)の国連の定義を分かりやすく言えば、<世界中の人々が、安全で栄養価が高くバランスの取れた食料を、ある程度の価格でいつでも消費できることを目指すこと>です。私の大きな研究テーマの1つが食料安保で、これまでにさまざまな数値データを基に海外の政府の食料政策等のアドバイザーなどの仕事もしてきました。

ウクライナで戦争が始まり、世界の食料安保がにわかに注目されています。2月から世界的に小麦、トウモロコシなどウクライナやロシアが輸出する農産物が一気に値上がりしました。特にウクライナから小麦を大量に輸入していた中東やアフリカの国々への影響は深刻です。それだけでなくロシアが世界各国に輸出する肥料が滞ると長期的に農業に影響し、農産物の供給減が起きて更なる食料の値上がりにつながります。また、ロシアからの天然ガス、原油の輸入が止まり、燃料価格も値上がりすると、バイオ燃料も連動して値上がりし、その原料のトウモロコシや大豆の需要が増え、それら穀物が値上がりします。

日本でも食料品の値上げラッシュが止まりません=*。最近の円安がそれに拍車をかけています。輸入小麦の価格は国から製粉会社に売り渡す価格が4月に平均17 .3%引き上げられましたが、この状況が続けば10月の価格改定でも大幅なアップが予想されます。農産物の価格は国際市場で決まり、その影響はやがて日本にも波及します。

*注=帝国データバンクの調査では、主要食品メーカー105社が2022年に値上げする商品は1万789品目(6月1日時点、実施済み含む)に及び、値上げ幅(各品目の最大値)の平均は13%に。小麦関連のパンや麺類だけでなく、原油価格上昇による輸送コストのアップはあらゆる品目に波及し、食品以外の紙おむつやティッシュペーパー、衣料用洗剤なども値上がりした。

アベノミクスなど金融緩和が背景に

実はこの値上げラッシュはウクライナ危機以前から始まっていました。昨年の秋から世界の商品市場では値上がりが始まっていたのです。値上がりの原因は世界各国政府が行ってきた金融緩和政策によるカネ余りと最近のコロナ禍で、需要が増え供給が減ったということです。

金融緩和とは、要するに景気回復のためにおカネを刷って株価を上げる策です。米国ではリーマンショック後の2008年ごろから、日本ではアベノミクスで2012年から始まりました。カネ余りが生まれ、世界の商品市場に投機マネーを呼び込んでいました。この状況にコロナ給付金が重なり、おカネが更にあふれました。日本では国民1人に10万円の特別給付があり、米国では約30万円が給付されました。特別給付の財源は国債発行です。日本の人口1億2000万人×10万円で総額12兆円にもなります。日本人の場合、預貯金に回す分も多いですが、とにかく給付金で購買意欲が高まり需要が増えます。生産量が変わらなければ値上がりにつながります。生産量が変わらないどころか、コロナ禍による工場の操業停止で供給が減少するという事態も起きていたのです。米国の場合は、給付金が日本ほど預貯金に回らず、すぐに購買に使われる傾向が強いのでなおさらインフレに直結します。

2008年に似ている危機

そこにウクライナ危機が加わり、供給が更に減ったので値上がりが加速したのです。これと比較できるのが2008年の食料危機です。この時は天候不順でオーストラリアやウクライナの農産物が不作となったのと、その前からのドル安が影響しました。世界で飢餓人口がアフリカ、アジアを中心に4000万人増えたと言われています。長期的には世界の慢性的な飢餓人口(約8億人)は減る傾向ですが、食料危機が起こるとそれが跳ね上がります。今回の食料危機では国連のWFP(国連世界食糧計画)やFAO(国連世界食糧農業機関)は、飢餓人口が数百万人増えると予測していますが、ウクライナ危機が長引けば2008年の4000万人以上にもなりうると私は懸念します。それほど深刻です。

この危機にWFPは先進各国などからの拠出金を呼び掛けていますが、現在ウクライナからの難民支援という課題もありおカネが足りない状況です。日本には政府による約100万トンのコメの備蓄がありますが、貧しい国々に食料の備蓄はほとんどありません。

オイルショックを彷彿

コメの備蓄があるとはいえ、日本の状況も楽観はできません。食品や日用品の値上げラッシュは、日本が長かったデフレ経済からインフレの時代に突入したことを示しています。日銀が目標としている物価のインフレ率2%を一気に達成しそうですが、政府の経済政策が効果をもたらした望まれたインフレではありません。賃金上昇を伴わない歓迎されないインフレです。

世界の投資家たちは現在の世界経済が1970年代に起きたオイルショック=*の時代に似ていると見ています。

*注=1973年の第4次中東戦争、79年のイラン革命をきっかけに起きた石油の供給危機。石油価格が高騰し、先進各国で不況とインフレが同時進行した。日本ではスーパーの店先などでトイレットペーパーなどの商品を奪い合うパニックもあった。

約10年にわたって幾度もインフレの波が押し寄せ次第に大きくなっていきました。コロナ危機やウクライナ危機が収束しても、現在のインフレはしばらく続くと予想されます。それほどこれまでの世界の金融緩和の影響が大きいのです。日本経済はインフレに加えて、急速な円安の進行というダブルショックに見舞われています。欧米主要各国がインフレ対策として一斉に利上げに踏み切る中、日銀は金融緩和を維持すると表明し、その金利差でますます円安が進んでいます。日本は国の借金である国債が1241兆円に膨れ上がっており、金利が1%上がれば国債費が3.8兆円増えると試算されています。国債費が増えれば財政を圧迫するため、利上げをしたくてもなかなかできない事情があります。

ハードルの高い食料自給率アップ 輸入先の分散と食の多様化を

この食料危機に対する日本の対策としては、長期的には食料自給率を上げることです。自給率を上げれば国際価格の影響を受けにくくなりますが、カロリーベースで4割を切る日本の食料自給率を引き上げるのはなかなか難しい課題です。農家への補助金や輸入農産物への高い関税で自給率を維持することが本当に日本にプラスになるのかもよく考える必要があります。例えば外国のコメには800%もの関税が掛けられています。しかし今では海外でもコシヒカリが作られ、日本と変わらないおいしいコメを輸入できますが、関税によって100円で買えるものが900円になるのです。もしコメの値段がそれだけ安くなれば家計は大いに助かります。私はかつてコメの輸入自由化をした場合のメリットとデメリットをシミュレーションしましたが、メリットの方が大きいという結論になりました。コメの輸入自由化には抵抗が大きく、政治的な決断が必要です。参考になるのは過去の牛肉の自由化で、中曽根政権が断行しましたが当初は大きな反対が起きました。確かに自由化によって肉牛農家は減少しましたが、日本の牛肉生産量は大規模化・合理化によって自由化以前より増え、和牛も含めて牛肉価格が下がったことで消費量も増加しました。輸入自由化が必ずしも自給率を下げるとは言えません。

短期的にできる対策は輸入先の分散化によるリスクの分散化です。リスクの分散という点では、食の多様化も進めるべきです。ご飯もパンも食べる日本は食の多様化がある程度進んでいますが、まだまだ食べられていない食材も多いです。クスクスやキャッサバなどは世界の多くの国で食べられていますが、日本人の多くは口にしたこともありません。近年は東南アジアなどで多く食べられている昆虫食にも注目が集まっています。子供たちへの「食育」を進めて食の多様化を図ることも求められます。

この危機に私たち消費者は日本円のみの預貯金を一部外貨にすることで円安リスクを回避をすることなども考える必要があります。日本が輸出大国と言われたのは過去のことで、エネルギーも食料も輸入頼みで、円安のダメージはとても大きくなり、期待できるのはインバウンドの観光収入くらいです。日本経済が大変な危機の時代を迎えようとしていると懸念します。

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