一澤 信三郎さん

一澤信三郎帆布 店主

「時代に遅れ続け」て揺るぎないブランドに
手作り直販が守る顧客との絆と職人のプライド

Graduate Voice 活躍する卒業生

FLOW No.99

Profile
いちざわ・しんざぶろう 1964年啓光学園中学校(現:常翔啓光学園中学校)卒。1967年同高校卒。1971年同志社大学経済学部を卒業し、朝日新聞入社。同社大阪本社の宣伝、販売部門で働いたのち、1980年同社を退社し子供の頃から手伝っていた家業の一澤帆布に復帰。1983年同代表取締役。2001年同社3代目父・信夫の死去に伴い兄と経営権を巡って訴訟になり一旦は敗訴。2006年ほぼ全ての職人・従業員らと信三郎帆布を立ち上げる。2009年兄との訴訟に逆転勝訴し確定。2011年元の一澤帆布の店舗に戻り、3つのブランドで営業。京都府出身。

1905(明治38)年に創業し、今や京都ブランドの1つとなった帆布製手作りかばんメーカーの4代目、一澤信三郎さんは啓光学園中高(現:常翔啓光学園中高)の卒業生です。零細だった家業を職人80人を抱え全国から「あつらえ品」の注文や修理依頼が引きも切らない人気メーカーに育て上げました。こだわりは手作りの製造直販という顧客との絆を重視した伝統です。現代的経営に背を向けた「時代に遅れ続ける」ものづくりの姿勢で、いつの間にか軽々と時代の先端に立っています。






ウクライナ国旗をモチーフにしたかばんを作製。50個がすぐに完売し、
売上金をキーウ市の姉妹都市京都市を通じて寄付



会社の運営は恵美夫人と夫婦二人三脚です。「私はハゲの社長、彼女が影の社長、とうまいこと言わはる人がいます」とトレードマークの帽子をさすりながら笑います。そのざっくばらんな人柄が、京都市東山区の店舗や作業工房の居心地の良さにも反映しています。

一澤帆布は、2代目の祖父が帆布製の丈夫で使い勝手の良い職人用かばんを作り始め土台を築きました。3代目の父の時代に大学の山岳関係者に必須のザックやテントのメーカーとしても有名になりましたが、化学繊維製品の登場で長くは続きませんでした。そんな時に一澤さんは4代目を継ぎました。「同志社大を卒業して朝日新聞大阪本社で10年ほど働いてましたんやが、廃業寸前の家業を継いで欲しいと父に言われて、先行きの不安もあったけどエイヤーと思い切りました」

大学時代は70年安保で学園紛争の真っ最中。4年生の時には当時人気だった五木寛之の小説『青年は荒野をめざす』の主人公さながら、外国航路で単身ハワイやロサンゼルスに渡り、さまざまな人との交流で刺激を受けました。帰国すると朝日新聞から内定が届いていました。渡米も新聞社入社も「自分の知らない外の世界へ出てみたい」との思いからでした。朝日新聞での担当は宣伝や販売などで、仕事も面白く、何より新聞社の自由な空気が好きでした。担当する販売店の後継者探しも大事な仕事でしたが、「いつの間にか自分自身が家業の後継者探しの当事者になってました」と振り返ります。

日本郵政の「第36回全日本DM大賞」
金賞を受賞した社員手作りの「一澤だより」



家業に復帰した当時は職人も10数人の零細企業でしたが、働きやすい社内環境や経営改善を次々に実行し、道具袋と見なされていた帆布製かばんを「若者ら一般の人が広い用途で自由に使えるものに」と、色も豊富でさまざまな種類のカバンを考案。国内外のアーティストとのコラボ商品も手掛け、「カジュアルなファッションに合う」と次第に人気を集めていきました。職人も80人近くになった時、父の死去をきっかけに兄との経営権争いが起きました。最終的に2009年に裁判で勝訴し、経営権を取り戻しましたが、その騒動の中でも職人たちや多くの顧客が支持しついてきてくれたのも、一澤さんとその製品への厚い信頼があったからです。

「職人の腕一本でどんな昔の製品も再現、修理できますよ」。手作りに徹底的にこだわる一澤信三郎帆布には製品の廃番、廃色がありません。コンピューターを組み込んだミシンもありません(100年前のミシンが現役)。製造直販で顧客の声が常に直接届き、新製品のアイデアにつなげるので専属デザイナーもいません。職人ら社員に定年もありません。社のモットー「時代に遅れ続ける」は、ものづくりのプライドと自信の裏返しのようです。後輩たちへのメッセージは、「あるがままに、機嫌よう」。自由人・信三郎の真骨頂です。

故・永六輔さんが揮毫(きごう)した大きな暖簾が
かかる京都市東山区の東大路通り沿いの直営店舗

活躍する卒業生