FLOW No.108
- Profile
- やまぐち・あずみ 2006年広島国際大学保健医療学部看護学科(現:看護学部看護学科)卒。同年脳神経センター大田記念病院入職。メニエール病を発症後は、治療に専念するため一時休職の後、退職。療養期間中に手話を学び、2016年Y-SMILE.を創業。2018年から2021年広島国際大学非常勤講師を務める。広島県出身。
誰もが互いに協力し合える世の中を求めて、「手話と聴導犬のビジネス」を展開している山口亜澄さんは大学卒業後、看護師として働き始めましたが、メニエール病を発症して退職。耳が聞こえづらくなることに備えて、手話を学び始めました。その後は「全ての人の幸せが福祉」と考え、手話ビジネスと聴導犬啓発の事業を夫と創業しました。「好きだから続けられる」。そう語る山口さんは自分の「好き」を大切に、さまざまな壁を乗り越えてきました。
憧れの職業「看護師」までの4年間
大学4年間は、体育会のソフトテニス部に所属し、学部学科の異なる友人が多数できました。学園祭では部で焼きそばを販売し、売り上げは懇親会費用に充てるなど、楽しい思い出がたくさんあります。当時の看護学科では1、2年生が東広島キャンパスで、3、4年生が呉キャンパスで学ぶため、3年生以降は授業終了後に呉から東広島キャンパスに移動して練習したこともありました。
看護師は子供の頃からの憧れの職業でした。高校2年の時に参加した広島国際大のオープンキャンパスで、看護師と保健師の2つの受験資格が取れることを知り、進学先に決めました。在学中は看護の基礎や人体の構造、機能などの勉強に苦労し、定期試験に合格できず、卒業が危ぶまれた時もありました。しかし、夢をかなえるために必死に勉強し、国家試験に合格して無事卒業、晴れて看護師になれました。
看護師として働き出すと、早く一人前になりたいという思いが強くなりました。患者さんのわずかな変化にも気付くよう心掛け、担当を引き継ぐ時も、聞き取った情報だけを頼りにするのではなく、自分で確かめることを徹底しました。
メニエール病をきっかけに学んだ手話
働き始めて2年目に不調を感じるようになりました。「看護師は忙しいのが当たり前」と、しばらく無理をして過ごしましたが、次第にめまいがひどくなりました。検査すると聴覚や平衡感覚をつかさどる内耳がむくみ、聴覚に異常の出るメニエール病と診断されました。当時、メニエール病は難病に指定された進行性の病気でした。看護師としての責任を全うしていくことができないと悩んだ末に、退職しました。
患者になると病気に対する考え方も大きく変わりました。以前は、病気は治ることを前提に考えていましたが、自分が患者になった瞬間に「治らないんだ」と思い込むようになりました。そして「いずれ聞こえなくなるなら、聞こえるうちに手話を学んでおこう」と、ろうの世界に入る覚悟をしました。
実は、手話には小学生の頃から興味を持っていました。平和学習で、被爆ろう者から戦争体験の話を聞いた時、生き生きと自分のことを語る様子に、手話をすてきな会話表現だと感じました。その後も耳の聞こえない主人公のドラマを何度も見たり、お小遣いで手話の本を買って独学を試みたりしました。
共生社会実現のため夫婦で創業
もともと興味のあった手話ですが、診断を受けた後は自分の将来のために、市の講座に参加するなど積極的に学ぶようになりました。独学していたことが生き、すぐに話せるようになりました。実際に会話ができたときはとてもうれしく、手話の楽しさを知りました。
2016年には、「手話ビジネス」と「聴導犬普及活動」を主な事業とする「Y-SMILE.」を夫婦で創業しました。事業のメインである手話教室では一方的に教えるのではなく、生徒が伝えたい内容を自由に身振り手振りで表現してもらいます。「手話 は『人助け』や『ろう者のためのもの』というイメージがあるかもしれませんが、会話表現の一つです。手話を始める入り口は狭いように感じるかもしれませんが、興味を持った人々に気軽に始めてもらいたいと感じているのです」。聴導犬の普及活動では、実際にどのように人助けをするのかデモンストレーションを参加者に見てもらったり、触れ合ったりしてもらいます。
自分の「好き」という思いを大切に
メニエール病と診断され、「なんで私なのか」と落ち込んだ時もありましたが、好きな手話を学ぶ機会にもなりました。思い返すと大学時代も看護の勉強と部活を両立しようと思ったのではなく、両方好きだから最後までやり遂げました。手話も興味を持って勉強を始めてどんどん好きになり、今では仕事として携わっています。どんな時も最後は自分の「好き」という思いに耳を傾けて行動をしてきました。「周りの声と違っていても最後は自分の気持ちを大切にしてほしい」と後輩に温かいメッセージを寄せてくれました。