centennial 6

常翔ラグビーの熱い原点

戦時体制下にも裸足で追った楕円球
終戦後1カ月で淀川河川敷に

FLOW No.90

常翔ラグビーの熱い原点

常翔学園にとってラグビーは学園の代名詞的なスポーツですが、その原点は戦前の関西工学校時代にさかのぼります。大阪工大高(現:常翔学園高)ラグビー部創部50年誌によると、1937(昭和12)年2月24日、正式に関西工学校体育会ラグビー部が誕生しました。今年で83年の長い歴史です。1929年の花園ラグビー運動場誕生でラグビー競技が盛んとなった大阪府下の中学校で10校目のラグビー部でした。今回の手掛かりは1枚の試合写真です。よく見ると選手全員が裸足です。第2次世界大戦下、「継ぎはぎだらけのラグビーボールを裸足で追いかけた」と記録され、ラグビーへの熱い思いが伝わる1枚です。戦後の華々しい常翔ラグビーの活躍はよく知られていますが、その飛躍の原点はあまり知られていません。

ラグビー先進地の大阪に



戦前にラグビーが大阪で人気スポーツになっていった大きな理由の1つは、もちろん1929年に我が国初のラグビー専用スタジアム「花園ラグビー運動場」(現在の東大阪市花園ラグビー場)が誕生したことでした。その建設の経緯です。



花園ラグビー場誕生と同時にそこを本拠地とする近鉄ラグビー部も創部されました。国内ラグビー界をリードしていった強豪チームの存在も大阪でのラグビー人気を高めたようです。こうしてラグビー先進地となった大阪に、関西工学校ラグビー部が誕生したのです。

礎を築いた大海卯一教諭



大阪工大高ラグビー部創部50年誌(1989年10月発行、ラグビー部OB会編)には

<昭和10年頃、当時関西工学校建築科教諭の大海卯一先生が体の強そうな連中を集め、ラグビー競技の手ほどきをされたのが始まりで、その後陸上部、柔道部、剣道部よりこのラグビー競技に興味を持つ者が集り、昭和11年頃にはむつかしいルールもほぼ覚え、チームとしての陣容もととのったので関西工学校ラグビー部として、学校側の許可も受け、西部ラグビー蹴球協会=注2=に加入。昭和12年2月24日正式に関西工学校体育会ラグビー部として誕生した>

と書かれています。学園のラグビーの礎を築いた大海教諭はどんな指導者だったのか、50年誌のOBの寄稿文に回想されています。

<(大海先生は)「お前達はラグビー部に入る迄は、ほとんどの者が悪童で他校の生徒とケンカもよくしたと思うがラグビー部に入ったからにはケンカは絶対に禁じる、ただしその闘争心をラグビー競技にぶっつけよ、……やられたらやって返せ、……ケンカではなくタックルで返すのだ」と口ぐせの様に云われた><当時クラブチームで最強を誇った関西ラグビー倶楽部=注3=のメンバーで有り、日本にラグビーを初めて持ち込まれたクラーク博士とも面識が有ると聞き、大いに気を良くしたもので有る>=福井英夫(1941年卒)


創部の1937年、関西工学校ラグビー部と大海教諭(中央の白いジャージ姿)


常翔歴史館に残る記録によると、1912年生まれの大海教諭は関西工学校建築科と関西高等工学校建築学科の卒業生で、1937年に母校の教諭になっています。慶応大でラグビーを伝えたクラーク博士=注4=という歴史的人物と大海教諭の記念写真も50年誌には掲載されています。

創部した1937年に発行された校友会誌「関西工学学報」は、ラグビーの紹介文と部の活動報告に3ページ近くを割いています。まだマイナーだったラグビー競技の魅力を生き生きと伝える文章で、創部当時の新鮮な勢いが感じられます。

紺空に響くホヰツスルの音、弾丸の様に飛び来り飛び行く楕圓形のボールが緑芝の園、白線あざやかな地面に落ちると、忽ち十数の敵味方が密集して、根限りの押合ひ揉合ひ、一ツのボールをめぐつて力と力、意氣と意氣との物凄い渦を巻き起し、やがて一方に掻き出されたボールは瞬時に味方のバツクメンによつて、まつしぐらに敵陣に突進するスリクオーター陣!! 身ををどらして飛びつき様にひきたほす敵、あわやと思ふ瞬時に投げられたボールを手にする敵味方!!……肉と意氣との相搏つ音、地を蹴る響き、ウインタースポーツの玉座として君臨せるラグビー競技……絕対服従の神聖なるレフエリーによつて擧行され、フアインプレーの感歎詞を連續的に持續せしむるものはラグビーならでは……本春早々に呱々の聲(産声の意味)を擧げるや……練習と修練を重ね創設後未だ半年を出でずして、日本ラグビー蹴球協會の加盟チームとなり……飛躍期に入らんとしつゝあり……

地獄のタックル練習



飛躍を目指したラグビー部ですが、実際はかなり苦戦を強いられたようです。当時、旧制中学は5年制でしたが関西工学校は4年制でした。このため最上級生が5年生と4年生という差によるハンディは大きく、

<創部より10年間、関工ラグビー部員は4年を卒業する際、せめて他校の様にもう1年残れたらと無念の涙を呑み乍ら、グラウンドを去って行った>

(50年誌)と書き残されています。淀川の堤防近くの合宿所「青雲寮」で寝起きしながら、目の前のグラウンドで猛練習する日々だったようです。再び50年誌のOB寄稿文からです。

<特に毎日かかさずやらされたタックルの練習は今思い出してもぞっとする程すごかった。…部員約30人程が大きな輪になって、その中心に1人が身構えると円の周囲にいる者が順次中心に向って真っしぐらに走ってくる……やっと1人を倒したと思ったらもう次の者が猛然と走ってくる。脳震盪や負傷者が出ても、おかまいなしに練習は休みなく続けられた=福井英夫(1941年卒)

<「関工魂はタックルから」と口ぐせにどなる先輩……小さな私等何度やっても倒れてくれない、……正に地獄の苦しみであった>=戸田弘光(1943年卒)

猛練習の結果、1939年の大阪・奈良・紀和地区予選大会ではベスト4となるなど徐々に力をつけていきましたが、戦争が部員らに重くのしかかっていきました。裸足の試合写真は、日本の敗色が色濃くなっていた1943年、花園ラグビー場で開かれた大阪府大会1回戦の対浪速中戦で撮られたものです。

<非常時臨戦体制下では、スポーツ用具の配給等は全く無くユニフォームは古い物を持ち寄り、自宅で染め直し、やっと同色の15枚を作り上げ府大会に参加出来た。勿論シューズ等は無く両軍「はだし」で戦う。楕円のボールはつぎだらけでデコボコで有った>

(50年 誌)。裸足で楕円球を追いかけたこの試合が戦前最後の試合でした。

終戦の年に早くも試合



1945年8月15日の終戦。空襲で焼け野原の広がった大阪でしたが、驚くことに関工ラグビー部はすぐに再始動しました。1カ月も経ずに、復員してきた部員やOBらが淀川河川敷で練習を始めたのです。ただ、復員できていない部員も多く、戦死した部員もいて、OBを中心に現役も加わった「城北クラブ」という混成チームを結成しました。試合ができる相手チームもまだ少ない中で、1945年12月9日、快晴の西宮ラグビー場で北野中(現:大阪府立北野高)の現役・OB混成「六稜クラブ」との試合が実現しました。終戦から4カ月も経っていませんでした。結果は0 -11で敗れましたが、常翔ラグビーの原点である関工ラグビーが復活を遂げた日となりました。




■ 創部から41年後に全国制覇 元関工ラガーらの熱い視線も
1978年、全国高校ラグビーフットボール大会で大阪工大高が念願の全国初優勝を果たしました。1937年の関工ラグビー部誕生から41年後のことでした。1963年にラグビー部監督に就任した荒川博司監督(1938~2001年)=写真左=の指導が実を結んだのです。野上友一・現ラグビー部監督=写真右=に荒川監督のことやOBとのつながりなどについて聞きました。
̶大阪工大高を全国の強豪チームに育て上げた荒川監督は何を変えたのですか?
野上 それまでのどちらかというとサークル的なラグビー部に専属コーチを置くなどしっかりした指導体制を整えたことです。それと各中学校とのつながりも築いていきました。
̶荒川監督の教えで大事にされていることはなんですか?
野上 荒川監督は「自分のチームだけが強くなるのではなく、みんなで強くなったらええ」と言って、大阪の高校ラグビー全体のことも考え、交流を盛んにして切磋琢磨する土壌を作りました。そのおかげで大阪の高校ラグビーに強豪チームがひしめくようになったのです。例えば国体に出るチームも他県なら強い単独校がそのまま代表になりますが、大阪は本当に各校からメンバーを選抜したチームを作るようになりました。だから常翔学園高は今も他校から合同練習を求められればどんなチームでもすべて受け入れています。
̶関工ラグビーとのつながりを感じることはありますか?
野上 最近、1938年に関工ラグビー部で副将だった方の息子さんから手紙をいただきました。お父様が今年101歳で亡くなられたとのご報告と部へのご寄付をいただきました。その手紙には、還暦を過ぎてもOBチームでラグビーを楽しんでいたことや、後輩たちが花園で活躍する姿をテレビにかじりついて熱心に見て喜ばれていたことなどが書かれています。棺にはラグビーボールを一緒に入れたそうです。こんな手紙をいただくと、ラグビーを愛し、後輩たちのチームを見守ってくれている卒業生たちとのつながりを強く感じ、もっと頑張らなければという励みになりますね。





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