そろばんから現代最先端の量子コンピューターまで、計算道具と計算機の進化は計算スピードの探求の歴史でした。それは商売の利便にとどまらず、さまざまなものづくり分野の研究・開発のスピードに密接に反映するからです。そして今や、コンピューターは計算機であると同時に新たな付加価値を生む情報処理機としてあらゆる分野で不可欠なものです。その計算機の急速な進化の過程を示す古い2つ計算機が常翔歴史館に所蔵されています。特に1964年に生まれた国産初の電卓(電子式卓上計算機)のシャープ「CS-10A」は歴史的な産業遺産です。3月20日は「電卓の日」(ビジネス機械・情報システム産業協会制定)ですが、この電卓から始まった日本の電卓生産数が1974年に年間1000万台を突破し世界一になったことを記念したものです。連載企画の第7回は、学園と理系教育に欠かせない計算機のかかわりを振り返ります。
タイガー計算器 連乗式第20号
科学技術の発展で高まった計算機の需要
企画第3回で取り上げたように学園創立から戦後しばらくは、建築・土木や電気、機械などを学ぶ学生たちの計算手段はそろばんや計算尺が主流でした。ただ、産業や科学技術の発展につれて複雑で桁の大きな計算も増えていき、自動的に計算ができる機械式計算機の需要も高まりました。その代表的なものが常翔歴史館にも残るタイガー計算器です。「連乗式第20号」という1953年ごろ発売の製品で、大阪工大の教職員が研究などの計算用に使っていたものです。手動で歯車を回すもので、大阪で金属加工工場を営んでい た大本寅治郎(1887~1961)が、海外の卓上型機械式計算機を改良して特許を取得し、1923年に「虎印計算器」として売り出しました。製造した「タイガー計算器株式会社」を現在引き継ぐ「株式会社タイガー」のウェブサイトで、当時の計算機需要の背景を知ることができます。
まず軍需工場や建築・土木の分野で計算機が求められたのです。タイガー計算器は1960年代末期に電卓が広まるまで国内で最も普及した機械式計算機で、会計や設計の業務などで広く使われました。価格と性能で外国製品に勝り、累計販売台数は50万台弱に達しました。1970年に生産が中止され、現在の会社は運輸・物流システムの開発などの事業を行っています。
大英科学博物館で永久保存の歴史的な電卓
計算機は20世紀半ばになって電子計算機、つまりコンピューターへと発展していきます。世界初のコンピューターとされるENIAC(Electronic Numerical Integrator and Calculater)は米陸軍の弾道計算のために1943年に開発が始まり、戦後すぐの1946年に完成しました。機械式や電気式の計算機と違って歯車や軸などの物理機構に頼らず、電流のオンとオフのデジタル回路だけを利用するため電子計算機と呼ばれました。その後、コンピューターはプログラム内蔵方式が考案され、スーパーコンピューターやパソコンに急速に進化していきます。一方でそれと並行して計算機能に特化した卓上で使える電卓の開発の流れも生まれました。その出発点と言えるのがシャープCS-10Aなのです。
常翔歴史館が所蔵するCS-10Aは、大阪工大大宮キャンパスの電子情報システム工学科の物置で長年保管されてきたものです。CS-10Aは早川電機工業(現:シャープ)が、そろばんのように「いつでも・どこでも・だれにでも」使える小型計算機として東京オリンピックの開催された1964年に完成。 数字入力は10桁、表示は20桁、大きさは420×440×250mm で、重量は25kg。演算にかかる時間は、毎秒加算80回、減算60回、乗算2.5回、除算1.2回。まだテンキーではなく、桁ごとに1から9の数字が並んでいます。定価は53万5000円で、当時の大衆的な乗用車とほぼ同じでした。
ロボットの知能化などを専門とする大阪工大システムデザイン工学科の小林裕之教授は、歴史的なものも含む電卓200台近くを収集する“電卓愛” にあふれた研究者です。CS-10Aについて「世界初のオールトランジスタによる電卓で、その後の開発競争の出発点となったまさに歴史的な製品」と評価します。1984年には英国・大英科学博物館に永久保存されているほか、2005年には世界的な電気・電子学会IEEEから「IEEE マイルストーン」に認定されました。「CS-10Aの登場後、電卓はIC(集積回路)、LSI(大規模集積回路)などの開発で小型・軽量化、大衆化が進み、最終的にはカードのような薄さも実現しました。こうした電卓の開発競争がマイクロプロセッサや液晶表示、太陽光電池などの要素技術を日本で発展させ、半導体需要を作り出したのです。世界をリードしていった日本のエレクトロニクス産業を支えたのが電卓だったのです」と小林教授は電卓の果たした歴史的役割を強調します。
スマートフォンにも計算機能がある時代になって、電卓の存在感は薄れていますが、理系の学生たちにとっては今でも必需品です。四則演算以外に三角関数や指数関数など複雑な計算機能を持つ関数電卓です。関数電卓持ち込みが認められている定期試験科目も多いのです。小林教授は「海外では高校生が数学の授業などで関数電卓を普通に使っています。日本の理系教育が遅れている部分ですね」と話します。教育の分野では世界的にも電卓の存在価値は失われていないのです。
電卓などのコレクションについて語る小林教授と理系学生必需品の関数電卓(左上)
計算センターが情報処理センターにICTで激変する教育現場の風景
さて、学園に初めてコンピューターが導入されたのは、奇しくもシャープの電卓CS-10Aが発売されたのと同じ1964年でした。富士通の「 FACOM 231」という小型汎用コンピューターです。ICT連携機構の八重垣茂夫さんは、「今のパソコンの機能にも及ばないコンピューターが1~2億円の時代でした」という1979年に学園に入職。以来、コンピューター業務一筋です。学園のコンピューター黎明期について「試験的な導入から始まって、教員たちのコンピューターの共同利用がしばらく続きました。当時はパンチカード方式で、個々の教員がプログラムやデータを何十枚、何百枚ものカードにパンチして、それを私たちが読み取り装置で処理しました。大きなデータだと処理結果をプリンターで出すまでに何日もかかりました」と振り返ります。
その後は電卓の発達と同じようにコンピューターの急速な進化に合わせて、学園のコンピューター整備も目まぐるしく変わりました。1994年に担当の組織名称が「計算センター」から「情報処理センター」になったのも、コンピューターが単なる計算機から情報処理機としての役割が大きくなったことを物語ります。ホストコンピューターの記憶容量が当初のキロバイト(10³)単位からメガバイト(10⁶)単位になり、今ではパソコン1台の記憶容量はギガバイト(10⁹)からテラバイト(10¹²)のレベルになっています。ホストコンピューターによるデータ管理は、よりコンパクトな拠点ごとのサーバーによる管理に変わりました。サーバー同士はネットワークで結ばれています。
誰もがパソコンを持つだけでなく、さまざまな情報端末も登場し、インターネットなど通信技術の進化も背景に教育現場の風景は劇的に変わりつつあります。昨年からのコロナ禍によるオンライン授業の導入は、ICT教育を更に1つ上のレベルに押し上げました。
ICT連携機構の八重垣さん=摂南大枚方キャンパスの情報処理演習室で