centennial 13〈最終回〉

学園の歴史を記録する

50年史から80年史まで過去5冊の周年史
学園のアイデンティティーを確認する作業

FLOW No.99

学園の歴史を記録する

学園の100年の歴史を振り返ってきた本企画も今回が最終回です。常翔歴史館などに残された具体的なモノを手掛かりに時代時代の学園の姿を描いてきました。現在、学園創立100周年記念事業の一つとして「100年史」の編纂作業が急ピッチで進められていますが、600ページ以上の分厚い歴史記録になります。その「100年史」を額縁に入った重厚な油絵作品と例えるなら、この「100年“モノ”語り」は短い時間でスケッチブックにサッと描いたデッサンとも言えます。そのデッサンの13枚目となる最後のテーマは「学園の歴史を記録する」です。これまでに学園は「50年史」(1972年)、「60年史」(82年)、「65年史」(87年)、「70年史」(92年)、「80年史」(2002年)と5冊の周年史を刊行してきました。これらの周年史を読み比べると、歴史に埋もれた意外な“再発見” や「建学の精神」が次第に明確な形になってきたプロセスなどが分かります。今年10月30日に学園は創立100周年を迎え、新たな歴史の記録作業も始まります。




学園として初めて周年史を編んだのが50年史(A6判805ページ)でした。法人名が「学校法人大阪工業大学」の時代で、書名も「大阪工業大学学園五十年史」です。1972(昭47)年、70年安保闘争で全国の大学に紛争の嵐が吹き荒れ、まだ世相が騒然としていた時期でした。「編纂を終って」(あとがき)で森暢編纂委員長が、<編纂の仕事は夙く昭和四十二年度(1967年度)から始められたが、其後止むを得ぬ事情のため三年近く中断…>と書いた「止むを得ぬ事情」が大学紛争だったのです。初めての周年史で全くの白紙からの編纂は苦労が多かったようです。

111.jpg周年史を編むことは学園のアイデンティティーを確認する作業でもあるのです。

学園史のif〈1〉

50年史、60年史、65年史で記述されていて、その後の70年史、80年史には記述がないのが、戦後の学制改革で摂南工業大学(その後、大阪工業大学に名称変更)が誕生する前のある動きです。
112.jpg65年史には、もっと分かりやすく記述されています。
113.jpg戦後の資金難の中で新制大学への昇格は大変な難題で、その過程で裁判沙汰になるような「身売り」話が現実問題としてあったというのは驚きです。この合併を持ち掛けた「某大学」とは関西大学のことですが、「もし、あの時合併していたら」と、想像をかきたてる「常翔学園史のif」の一つです。

学園史のif〈2〉



もう一つの「常翔学園史のif」が、大学の進出先です。65年史には、学園の将来計画について藤田進・第7代理事長時代に検討委員会が作られ、1 次、2次の答申があったことが書かれています。1985(昭60)年の1 次答申の中身は
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というもので、香川県多度津町への進出が一時検討されていたことが分かります。本州四国連絡橋「瀬戸大橋」(1988年開通)のできる前の話です。

新大学構想はその後本格化。1995(平7)年に教育関係諸問題検討委員会が<「大学冬の時代」を生き抜くためには医療福祉を中心とした新大学設立が肝要である>(80年史第8章)と理事会に提示。広島国際大の開学(1998年)として実現するのですが、その過程で複数の候補地が挙がっていました。115.jpg四国や九州、更には東北という「if」もあったのです。

建学の綱領と建学の精神

65年史(1987年)からは、50年史、60年史のA6判より大きなA4判になり、活字組も縦組みから横組みになりました。その体裁の変更だけでなく、中身にも60年史までとの大きな違いが2つあります。まず、あいまいだった学園創設史を見直し、関西工学専修学校は「設立者・校主の本庄京三郎、校長の片岡安」と12人の理事が創設にかかわったという歴史が確認されたこと。2つ目の違いは「建学の綱領」です。
建学の綱領は創立65周年を機に行われた寄附行為(学校法人の根本規則)改正の一環だったので、当然50年史と60年史にはありません。
116.jpgこうして「建学の精神の現代への具現化」は達成されましたが、肝心の「建学の精神」は明確な言語化がされていませんでした。50年史では、第1章四の「建学の精神と校風」の中で「将来の発展を志向するわが学園の『建学の精神』ともいうべきものは如何なるものであったろうか」と考察されています。夜間授業による社会人教育から出発し、工業技術者養成に取り組んだ歴史を振り返ったうえで、
117.jpgと“推測” しています。つまり「建学の精神」については、ことあるごとに話題にはなっても、それを明確にはしていなかったのです。学園が「工学」一色から次第に「総合」化していったのが明確化しにくかった理由の一つでしょう。建学の精神が正式に言語化されたのは2003(平15)年に就任した東松孝臣第9代理事長によって設置された「業務改革推進委員会」の取り組みまで待たなければいけませんでした。「建学の精神」は2004(平16)年12月の理事会、評議員会で承認されました。その後、多少の文言の変更を経て現在の形になりました。
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119.jpgこの「建学の精神」などを浸透させるために、その中身を映像化したDVD「TSUKURU Only One」=写真=が全教職員に配付されました。「建学の精神」の言語化の取り組みは80年史以後のことになるので、100年史で初めて詳細に書かれます。







組織も周年史も成長



2008年に大阪工大高が常翔学園高に校名を変更し、それに続いて法人名自体も常翔学園に変更されました。したがって「常翔学園史」と名乗るのは100年史が初めてです。
組織がスクラップ&ビルドを繰り返しながらも大きく成長し、その年史も膨らみ続けてきました。常翔学園の100年史は、単なる出来事の積み重ねではなく、時代時代の学園の人々の喜怒哀楽の積み重ねでもあります。ずっしりと重い1世紀です。

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常翔100年❝モノ❞語り