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centennial 05

大学歌、応援歌に新生の思い

古賀政男らの人気作曲家 西條八十ら大詩人の名も

FLOW No.89

大学歌、応援歌に新生の思い

戦後の学制改革で1949年4月、摂南工業専門学校が摂南工業大学として新制大学に昇格しました。半年後の10月には「大阪工業大学」に名称を変更し、名実ともに学園の新時代がスタートしたのです。新たな学校がスタートする時に必ず付いてくるのが校歌や大学歌。現在放送中のNHK朝ドラ「エール」で早稲田大の応援歌「紺碧の空」に注目が集まりましたが、大阪工大の大学歌や応援歌からもその時代の歴史や人々の熱い思いが読み取れ、感じられます。大学歌の作曲家は「海行かば」で知られる信時潔で、応援歌は古賀政男が作曲、西條八十が作詞という当時の超一流の作詞・作曲家の名前が連なっています。今回は学園にまつわる大学歌などからそこに込められた思いを振り返ります。





1947(昭和22)年、新たに教育基本法と学校教育法が公布され、「6・3・3・4」制の新教育制度がスタートしました。戦前の実業学校令に基づいて設置された関西工業学校と摂南工業学校は新制中学、新制高等学校に移行。専門学校令に基づいていた摂南工業専門学校は、新制高等学校に移行するか新制大学に昇格するかの選択を迫られました。「万難を排しても大学昇格を」(1948年4月の理事会)との希望を持っていた学園は、戦災で大きな被害を受けながら復旧計画を練り、文部省(当時)の指導も受けて、1949年3月に認可を受け「摂南工業大学」として大学昇格を果たしました。4月に入学者を迎えて開校。半年後には、「戦前の校風一新を」との学生の運動もあり「大阪工業大学」に改称しました。

昇格を果たし、「大学」を強調?

大阪工大大学歌


その同じころ生まれた大学歌の歌詞です。
♪1番 産業の意図たくましく/ 都の力あつまりて/ 築き上げたる大学を/ 仰げ雲霧晴れわたる/ 生駒の山の空高し
♪2番 新生の道ひらけ行く/ 国土の命みなぎりて/ 望みゆたけき大学を/ 歌え広野に大淀の/ 堤をあらふ水清し♪(作詞:竹友藻風)

大学名が入っていないのは改称のごたごたを反映しているのかもしれませんが、それよりもむしろ「大学」を強調したかったのではと受け取れます。「苦労の末に勝ち取ったぞ」という大学昇格の喜びは、2番冒頭の「新生の道ひらけ行く」にも反映しています。なお作詞の竹友藻風は詩人で英文学者、関西学院大や大阪大の教授を歴任しました。メロディーは動きのある前半と流れるような後半のコントラストが印象的です。作曲の信時潔は戦時中の大本営発表の際に流されたことで知られる「海行かば」の作曲者です。東京音楽学校(現:東京芸術大)作曲科教授を務め多くの著名作曲家を育てました。大阪市で牧師の子として生まれた、大阪ゆかりの有名作曲家だったのです。

さて、大学歌には出てこない大学名を入れた応援歌が1952年にできました。今回の“モノ” 語りのモノは、常翔歴史館に展示されているその応援歌の歌詞の直筆原稿です。詩人、西條八十=写真左・毎日新聞社提供(1935年10月撮影)=が万年筆で原稿用紙に書いたものです。学園80年史には、1952年3月27日の第1回卒業生159人の「卒業式に合わせて『応援歌』が披露された」とあります。象徴詩人としてデビューし、多くのヒット歌謡曲も手掛けただけに、この応援歌の詞も、「火を吐く力、力、力」「烈風の葉を捲くごとく」「躍り立つ金色のアポロ、工大!」「日輪の野を燬くごとく」「雲翔ける必勝の天馬、工大!」と詩的な言葉が並び、応援の場で歌うと自然と感情が高まるようにできていて、さすが手練れの作詞家です。作曲はその後に昭和歌謡を代表する作曲家になった古賀政男=写真右・毎日新聞社提供(1973年12月撮影)=です。同じ1952年のヒット曲「ゲイシャ・ワルツ」も西條・古賀のもので、そんな売れっ子コンビに応援歌を依頼したことになります。

格安! 1万円の作詞作曲料

1952年3月27日付の大阪工業大学新聞1面の囲み記事

当時、学生が発行していた工大新聞(後の大阪工業大学新聞)に曲の依頼の記事があります。1951年11月4日付臨時号の1面の片隅の記事です。

<若き情熱の高唱、応援歌はカレッヂライフの謳歌でもある。インターカレッヂ華々しい昨今、学友会に於て、作詞作曲に一万円、渉外費七千円を決定し、目下作詞者を選定中で、西條八十氏に依頼の予定>


1951年当時の大卒公務員の初任給は5500円。ラーメン25円、コーヒー30円の時代です。1万円は作詞料だけなのか作詞作曲合わせてなのか、この記述でははっきりしません。しかし、作詞料だけと考えても今の感覚からすると売れっ子作詞家にはかなり安いと感じます。学生主体の学友会の依頼なので格安で引き受けた可能性もあります。


西條や信時の年譜を調べると、全国各地の高校や大学の校歌を手掛けていることが分かります。何十という数です。新制の高校や大学が次々に生まれ、そのどれもが校歌を作ることになった時代ですから、有名作曲家や作詞家・詩人に依頼が集中したようです。


応援歌は無事に卒業式までに完成。卒業式当日の1952年3月27日付の大阪工業大学新聞1面では、「待望の応援歌成る」の見出しの囲み記事で楽譜と歌詞を紹介しています。

<我等若人の熱と意気そのもの、この応援歌…は今後、本学選手達が…競技場に堂々の駒を進める時、又白熱した球場等に青紺の大団旗と共に強敵を圧し本学選手達の士気を大いに鼓吹するであろう>

学園創立30周年の背景に緊張した時代

応援歌ができた1952年は学園創立30周年でもありました。朝鮮戦争(1950年6月25日~53年7月27日休戦)の真っただ中で、国際情勢が騒然とする一方、日本はその軍需景気で戦後復興のきっかけをつかもうとしていた時代でした。1952年7月10日付の大阪工業大学新聞は「創立三十周年に当って」との社説を掲載していますが、その中の一節です。

<視界を国外に転ずれば、朝鮮戦乱を契機として、米ソ間の緊張が伝えられるや、全世界の視聴はクレムリンとホワイト・ハウスの一挙一動に集中し、全人類を挙げて第三次大戦の恐怖に戦いているが…(対立の根底には富の分配があるから)…工業の進歩による全人類の生活水準の向上は、緊張を緩和する大きな要素たり得る…>


第2次世界大戦の爪痕がまだあちこちに残り、戦争への逆戻りがまだ身近な恐怖だった時代に、工業を学ぶ学生として平和を守ろうとする真剣な思いが伝わってきます。応援歌を高唱する学生たちを取り巻く環境は今とは全く違っていたのです。


■学校のイメージで変わる曲想 2案あった広島国際大大学歌

広島国際大大学歌を作曲した禅定佳隆・常翔学園中高音楽教科教諭(常翔ホール館長を兼務)に大学歌や校歌の作曲の面白さや難しさを聞きました。

大学歌を作曲することになった経緯は?

禅定:当時の藤田進理事長から直々に要請されました。既に理事長が書いた歌詞は完成している状態で、副題の「われらが使命」も付いていました。

校歌や大学歌を作る時に一番注意することは何ですか? また暗黙のルールのようなものがあるなら教えてください。

禅定:その学校や大学の特色からイメージを膨らませます。例えば何を学ぶのか、どんな人材を輩出しようとしているか、学生に男子あるいは女子が多いなどでも曲想は変わります。ルールと言えるほど決まったものはないですが、大人数が声をそろえて歌いやすいものにというのはあります。速すぎるテンポや、難しい転調は避けますね。逆に付点リズムで生き生き感を出し、サビの部分で少し音を跳躍させるなどして盛り上げるような工夫もします。

広島国際大大学歌で苦労されたことはどんなことですか?

禅定:曲作りはそんなに時間はかかりませんでした。むしろ現在の大学歌とは全く違うタイプの曲も用意していたほどです。新しい大学は医療系の大学と聞いていたので、女子学生も多いだろうと考えて、8分の6拍子という流れの良いメロディーのものでしたが、それまでの大学歌とはだいぶイメージが違っていたためか、こちらは採用されませんでした。ただ私自身はそちらの方が気に入っていましたね(笑)。

大阪工大と摂南大の大学歌はどうですか?

禅定:大阪工大の作曲者の信時潔も摂南大の平井康三郎も日本を代表する作曲家です。それを見ても大学創立時の関係者の意気込みが分かりますね。

広島国際大大学歌                  摂南大大学歌





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