centennial 04

戦争に翻弄された教育

6月7日の大阪大空襲で大きな被害
城北公園に残る犠牲者慰霊の千人塚

FLOW No.88

戦争に翻弄された教育

学園創立100周年に向けた連載企画の第4回のテーマは「学園と戦争」です。「15年戦争」と表現されることもある満州事変から日中戦争、太平洋戦争にいたる足掛け15年(1931~45年)続いた対外戦争の時代。年を追うごとに自由な学園生活に緊張が高まっていくことが、残された学友会誌などの記録から読み取れます。科学技術も含めた総力戦体制では技術者を育てる学園の教育も大きく翻弄されました。2枚の古びた紙片を手掛かりに二度と繰り返してはいけない歴史を振り返ります。

大阪工大のルーツである摂南工業専門学校電気科の卒業生(1948年)で、2019年に亡くなられた藤川清さんが生前に寄贈した戦時中の2枚の紙の資料が常翔歴史館にあります。1枚は「貯金通帳焼失證明書」。もう1枚は米軍機からまかれた降伏を促す宣伝ビラです。


降伏を促すB29からまかれたビラ



6月7日の第3回大阪大空襲で学校が保管中の貯金通帳
が焼失したという証明書



戦費を賄うための貯蓄奨励

城北公園の淀川堤防上にある千人塚

「当校ニテ保管中…戦災ニヨリ焼失セルコトヲ證明ス」と校長名で書かれた貯金通帳焼失證明書は、終戦の年(1945〈昭和20〉年)の6月7日に、3回目の大阪大空襲=*=で現在の大阪工大大宮キャンパス一帯が大きな被害を受けたことを物語ります。なぜ学校が学生の貯金通帳を保管していたのかは、少し説明が必要です。日中戦争以降、軍事費が飛躍的に増加し、それを賄うためには増税と国債発行では足りず、国民の預貯金を充てることが計画されました。1941年に「国民貯蓄組合法」が制定され、国民は地域や職場、学校で結成された国民貯蓄組合のいずれかに加入し貯金をさせられたのです。その貯金通帳を学校が保管していたと推測できます。

それが焼失したという大空襲は、6月7日午前11時過ぎから約1時間20分にわたる白昼の惨劇でした。米軍B29爆撃機は城東の大阪陸軍造兵廠を狙って爆弾を投下したのをはじめ、都島区を中心に大阪市北東部に大きな被害をもたらしました。学園でも高射砲陣地が設けられていた城北校舎(現: 大宮キャンパス)は、爆弾や焼夷弾の攻撃目標となり、大きな被害を受けました。屋根の一部は爆風で吹き飛び、4階建て本館の梁も折れ曲がりました。キャンパス近くの城北公園では勤労動員の女子学生をはじめ避難していた多くの住民が米軍戦闘機による集中的な機銃掃射を受け、数百人から千人ともいわれる犠牲者を出しました。その慰霊塚「千人塚」が同公園の淀川堤防上に今もあり、お供えの花が絶えることがありません。



爆風で屋根が飛び傾いた城北校舎

爆弾、焼夷弾と共に空から降った宣伝ビラ

米軍機から宣伝ビラがまかれたのは、その大空襲から約1カ月半後の7月26日。広島への原爆投下まで10日、終戦まであと19日の日付です。「マリヤナ時報 号外」の題字。マリヤナとはサイパン島、テニアン島、グアム島などからなるマリアナ諸島のことで、1944年8月にマリアナ諸島を制圧した米軍が、ここを基地にして同年11月からB29爆撃機による日本本土への長距離爆撃を始めました。空からは爆弾や焼夷弾だけでなく「マリヤナ時報」という宣伝ビラも大量にまかれました。日本人捕虜の中の元新聞記者らも使ってハワイで編集されたもので、終戦までに450万枚以上が投下されたと言われています。そのうちの1枚を藤川さんが保管していたのです。内容は同日付けで米国、英国、中国の3国が日本に出したポツダム共同宣言です。裏面の最後の13項目目に無条件降伏の要求があります。こうしたビラが今でも各地に残されていますが、「大本営発表」の情報ばかりに慣らされていた国民にとって、衝撃的な新情報だったことが想像されます。

国策に沿った学科開設も

最初の科学戦と言われたのが第1次世界大戦(1914~18年)ですが、それ以降、戦争での科学者の役割が極めて重要になりました。化学が毒ガス兵器開発に、物理学が無線電信や潜水艦探知技術などに利用されたのをはじめ、戦車や戦闘機、飛行船、無煙火薬、機関銃などあらゆる軍事技術に科学者らは動員されたのです。当然、技術者の需要が一気に高まりました。

「支那事変(日中戦争)勃発とともに技術者の需要特に切なるに……」(1940〈昭和15〉年度の関西工業学校学友会誌)と書かれているように、学園設置の各学校では学級数を増やし、航空機械科や採鉱冶金科など軍の要請や国策に沿った新学科開設が相次ぎました=年表。航空機械科は軍用機製作に従事する技術者養成のためで、航空力学や航空機用材料学、航空発動機設計法などが教えられました。





学校での軍事教練が強化され、軍の将校が配属されました。校庭での分列行進や防空演習、野外教練、体験入隊などが盛んに行われていきました。学園生活に戦争の影が覆っていく様子は、毎年発行されていた関西工業学校の学友会誌の内容からも読み取れます。1935(昭和10)年の学友会誌には、軍人の講演記録などもありますが、生徒らの書いた随筆のテーマの多くは自然。「春の郊外」「海」「紀泉アルプス縦走登山」「初夏の淀川」などまだどこかのどかな誌面です。それが太平洋戦争の始まった1941(昭和16)年には誌名も「報国団誌」に改名され、生徒らの随筆にも「軍人勅諭を拝読して」「戦争と写真宣伝」「国難怖れじ」「大政翼賛と学生の本分」など戦争をテーマにするものが増えていきます。応召された教員の「戦線だより」、戦死した教員の追悼記事にも誌面が大きく割かれていきました。

学友会誌も「報国団誌」と改名された



マリヤナ時報号外に書かれたポツダム宣言を日本が受諾し8月15日の終戦を迎えると、軍需工場等へ学徒動員されていた生徒たちも学園へ戻ってきました。南方校舎は全焼、城北校舎は辛うじて本館の一部(1、2階)、2号館(現:1号館の場所)、機械実習実験室が焼け残りました。南方校舎の関西工業学校は、南方国民学校校舎を、1946年4月からは吹田第一国民学校校舎を借用して授業を続ける一方、城北校舎で焼け残った教室を当時の3つの学校(摂南工業専門学校、摂南工業学校、関西高等工学校)の生徒のため朝、昼、夜の三部制に分けるやり繰り授業で急場をしのぎました。残された学校管理記録によると、1946年10月の理事会で「大宮校舎の本館3、4階の復旧工事をH組と契約する」という項目があります。教室不足の解消には時間がかかったようです。

防毒マスクを着けて銃を構える関西工学校の生徒ら



*【大阪大空襲】100機以上の爆撃機によるものが大空襲と呼ばれ、大阪では1945年3月から8月の間に8回を記録。最も被害が大きかったのは1回目の3月13、14日の大空襲で、約4000人が死亡、約50万人が被災した。6月7日の3回目の大空襲は、B29爆撃機409機と護衛のP51戦闘機138機の銃爆撃で市民ら約2800人が犠牲になったとされる。





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