山口 明夫さん

日本アイ・ビー・エム 代表取締役社長執行役員

「枠を超えろ」を合言葉に 3万人の社員とITの世界を牽引

Graduate Voice 活躍する卒業生

FLOW No.87

Profile
やまぐち・あきお 1987年大阪工業大学工学部経営工学科卒。同年日本IBMに入社。エンジニアとして金融機関のシステム開発・保守などに携わった後、2000年に社長室経営企画スタッフに。ソフトウエア製品のテクニカルセールス本部長を経て、05年に米国IBM本社の役員補佐。07年以降はコンサルティング、システム開発・保守や、ビジネス・プロセス・アウトソーシングなどの領域でお客様の企業変革を支援するグローバル・ビジネス・サービス事業を担当し、理事、執行役員、常務、専務を歴任。2017年より取締役専務執行役員、グローバル・ビジネス・サービス事業本部長に就任。併せて、米国IBM本社の経営執行委員に就任。2019年5月から現職。経済同友会会員。趣味はテニス、ゴルフ。和歌山県出身。

 20世紀初めからコンピューターで世界をリードしてきたグローバル企業アイ・ビー・エム(以下IBM)。その日本法人日本IBMの社長に昨年就任した山口明夫さんは大阪工大経営工学科の卒業生です。金融オンラインシステムなどの現場のエンジニアからスタートし、一つ一つキャリアを積み上げて昨年、グループ社員3万人、協力会社を含めると10万人近くを引っ張るトップに立ちました。同社生え抜きで、7年ぶりの日本人社長です。社長就任後に「あらゆる枠を超える」というビジョンを掲げ、組織や企業の垣根を超えてテクノロジーで世の中の課題を解決しようと奮闘しています。社内外の人望の厚い山口社長に学生時代の思い出や社長としての意気込みなどを聞きました。






「大阪工大の七不思議」と言われた日本IBM内定



山口社長は和歌山県紀の川市の農家の長男として生まれました。「あら川の桃」で有名な旧桃山町で桃やミカンなどを両親が栽培していました。県立那賀高校では理系の勉強が好きだったこともあって、将来主流になることが確実なコンピューターを学べそうと大阪工大経営工学科に進学。授業ではIBMが開発した世界最初のコンピューター用高水準言語「FORTRAN(フォートラン)」を使ったプログラミングなどを学ぶ時代でした。山口社長の話から浮かぶのは意外と普通な地方出身の学生の姿です。



課題の提出物でも友人に助けてもらうような学生で、コンピューターの最先端企業のIBMに入ろうなどという野心は全くなかったですね。長男なのでいずれは地元に戻りどこか就職先を見つけ、週末には農業をするのかなという漠然とした思いがありました。



大阪工大時代の思い出は「働き続けたこと」と言うほど、山口さんはアルバイトに精を出しました。まさに「昭和の学生生活」の思い出が続きます。



地元の千林大宮商店街のスポーツ用品店で午後5時から9時まで、その後、守口のコンビニで午前2時まで働きました。さらにお金が無くなったら深夜から朝まで関目のハンバーガー店で清掃の仕事もしました。スポーツ用品店の店長とは今でも年賀状をやり取りしています。豊里大橋のたもとにあった家賃1万1千円の古いアパートに下宿し、トイレは共同で風呂は銭湯。卒業論文のテーマは確か「コンピューターソフトを使った生産管理システム」でした。



そんな学生だった山口さんが日本IBMに入社することになったのは、当時のゼミの栗山仙之助教授と能勢豊一教授の推薦。研究室まで来た人事担当者の面談を受けて内定しました。



実は何年か前までは単位が足りずに大学を卒業できない夢を時々見ていました。それくらい大阪工大での成績はぱっとしなかったですね。当時はIBMと言えば大学院生か学部でも成績がトップクラスの学生しか入っていなかったので、どうして自分がとの思いでした。周りからも「大阪工大始まって以来の七不思議」と言われましたよ。



キャリアのスタートは保守要員



入社同期が国内だけで1700人という大量採用の年でした。新入社員研修では、スピーチがうまく優秀な同期が多くて圧倒されました。「自己アピールも下手な自分がちゃんとやっていけるのか不安になりました」と振り返ります。最初の配属は大阪のコールセンター。クライアントからの製品の故障や不備の連絡に対応する保守要員でした。2年後、東京に転勤になり、しばらくして大手都市銀行担当のオンラインシステムのチームに入ります。銀行の現場に張り付いて、システムのメンテナンスや故障対応に当たりました。



入社3年ほどのスキルもない新人には、大銀行の当時最先端のシステムを扱うチームは荷が重かったです。保守などの仕事は目立たたず日の当たらない仕事とも言えますが、一から懸命に勉強しました。やがて、時間を惜しまず真面目に仕事をして、銀行の方々とも誠実に話をする姿が評価されたようで、「システムエンジニア(SE)になってみたら」と上司に誘われて次のステップへの道が開けました。



社長就任後に、当時一緒に仕事をして仲良くなった銀行の人たちの多くが集まって祝いの宴を開いてくれました。「あの山口っちゃんが社長になるなんて、これっぽっちも思わなかった」と言われたと笑いますが、いかに若いころからクライアントに好かれて人望があったかが分かるエピソードです。





日本社会のデジタル変革を



その後は、入社13年で社長室にできた経営企画のスタッフに抜てきされると、社内での評価の上昇とともに経営の中枢を歩むように。



2年半ほどして現場に戻り、初めて部下が50人ほどの部長を任されました。金融機関のITインフラ担当部署です。その後、ソフトウエア製品販売をサポートするシステムエンジニア部隊を束ねる部長になり、一気に部下が450人になりました。



2005年に米国IBMの役員補佐を経て、2007年以降は日本IBMでグローバル・ビジネス・サービス事業を担当。コンサルティングやシステム構築などでクライアントの企業変革をサポートする事業です。この10年余りで理事、執行役員、常務、専務を経て2017年に取締役専務執行役員と会社経営の中枢を駆け上がるとともに、米国IBM本社の経営執行委員の1人になりました。



米国の役員補佐になった時は、TOEICでは730点くらいはありましたが、まともに英語は話せませんでした。英語が普通に話せるようになったのは数年前からですよ。取締役会は英語ですし、今では1日の会話の半分は英語です。ビジネスがボーダーレスの時代に、英語はどうしても必要です。最初はコミュニケーションの効率が落ちますが、そこから逃げてはいけないと思います。外国人に限らずさまざまな人たちのいる環境やダイバーシティー(多様性)の中に身を置くことは、いろんな価値に気付かされて自分を成長させます。



社是「考えよ」の各国語のボードを背に



社長就任後に「あらゆる枠を超える」を新たなビジョンに掲げ、① 日本社会のデジタル変革の推進② 量子コンピューターや砂粒のような極小のコンピューターなどを使った新しいビジネスの開発③ 不足するIT・AI人材の育成や若い人へのAI教育などの社会貢献、などの重点的な取り組みを進めようとしています。また、社内的には社員が前向きに働ける環境を実現することに積極的で、社員の両親や祖父母を職場に招待する「Appreciation Day(感謝の日)」も新設し1000人が訪れました。社内保育所や夏休み中の社員の子供を預かりプログラミング教育などをする学童クラブなども進めています。





1人称で考えることの大切さ



人材育成に熱心な山口社長には、学生に求めたい資質や大学に求めたい教育があります。



学生は学んで、考えて、経験することが大事です。最近の新入社員にはいわゆる「優等生」が多く、「会社の期待値は何でしょうか」と聞いてきます。子供の時は親の期待に応えて、社会人になれば会社の期待に応えるだけでは自分がないですね。考えて考え抜いて初めて自分の立ち位置が出てくる。自分の意見や意思を明確にできたら、お客様にしっかり対応することもできます。AIのアウトプットが本当に正しいかどうかも自分が成長しないと判断できないこともあります。また、大学には今のマーケティングと同じようなきめ細かな教育を求めたいです。学生のレベルや得意分野はさまざまです。これからは同じことを多くの学生に講義する「マス」の教育ではなく、学生一人一人に違う教育を提供する環境やカリキュラムが必要だと思います。 日本IBMでは全社員一人一人に1週間ごとに「今のあなたのスキル、仕事内容、世の中の変化から、受けた方がいい研修は…」といったアドバイスが来ます。



最後に後輩たちへのエールをお願いしました。



『私はこう思う』という1人称で考える癖をつけてください。誰かが言っていた、教科書やネットに書いてあったではなくて、自分がどう思うかが大事です。間違っていてもいいのです。素直に話を聞いて間違っていると思ったら直せばいい。それで成長できます。



活躍する卒業生