学園初の女子学生誕生は大阪工大が開学した1949年から4年後の1953年でした。建築学科に入学した牧(旧姓・吉見)昌子さん(87) です。婦人参政権の実現、男女平等を定めた新憲法制定、「家」制度を廃止した民法改正、教育の機会均等や男女共学を定めた教育基本法制定など、女性の権利拡大や地位向上のための戦後改革が次々に進められていった時代でしたが、それで女性差別が一気になくなったわけではありません。牧さんらの不屈の挑戦が女性を取り巻いていた多くの壁を少しずつ切り崩していったのです。来年10月30日の学園創立100周年に向けた連載企画の第9回は「女子学生誕生」がテーマです。
盆栽に情熱を注ぐ現在の牧さん
常翔歴史館に大阪工大の1956(昭和31)年度の学生便覧が残っています。古ぼけたページをめくると、「学寮規定」の「風紀」の項目に目が留まります。<女子を居室に入れることは之れを禁ずる>。こうした環境の中に女性1人で飛び込んでいった苦労はどれほどのものだったのか。今は故郷の愛知県西尾市に暮らす牧さんに、手紙で当時の学生生活などの多くの質問に答えてもらいました。学園の女子学生第1号の貴重な証言です。
悠々と男子トイレに入り 女子の後輩入学にうれし涙
愛知県西尾市で育った牧さんは、女の子ばかりの姉妹の中でも一番やんちゃで、のどかな田舎で男の子たちと木登りや魚獲りなどして遊ぶ子供だったそうです。男女共学となった新制中学の1年生で、公立高校普通科に進学。50人のクラスでもまだ女子は10人以下で、男子ばかりの中にも平気で入っていけるようになっていきました。また建築好きの父親の影響で建築設計に興味を持つようになり、中学2年の自由研究で「私の理想の家」と題して描いた設計図が入賞するまでに。大学進学で大阪工大建築学科を選んだのも<今思えば自然の成り行きだった気がします>と振り返ります。大阪に住む親戚が「面倒を見るから」と両親を説得してくれたことも後押しになりました。
こうして晴れて大阪工大初の女子学生となった牧さん。今なら誰もが真っ先に困難を想像するトイレ問題への答えにはちょっと驚きます。
<この時代にはまだ女子のトイレや更衣室がないのが当たり前で、それが普通だと思っていましたから、悠々と男子トイレを使っていました。職員用もあったように思いますが、トイレで困った記憶はありません。個人差はあるでしょうが、当時それは悩むことではありませんでした>
学びたいという大きな意欲の前では、苦労もそれほどの苦労と認識されなかったようです。
入学後に同級生や先輩との交流も少しずつ増えていき、「校内に自分の場ができるから」と建築文化研究部というクラブに誘われ入部。こうして徐々に男子社会に溶け込んでいったようです。
<建文研の部室で建築雑誌を読んだり、先輩や後輩と語らったりする時間が最も楽しい時間でした>
<卒業前には4年生が製図室に毛布1枚を持ち込んで1週間くらいこもり、設計製図を制作するのが恒例で、下級生として手伝ったことも楽しい思い出です。ただし自分が4年生なると、苦しみを思い知らされました>
その牧さんの卒業研究のテーマは「アパート設計」。平面図と立面図は苦労なくできましたが、詳細図に苦労し、<友達に助けてもらったりして何とか合格できました>と振り返ります。4年生になると男子学生は就職活動に忙しくなりますが、牧さんは4年の後半までほとんど就職活動はしませんでした。今でいう“大卒リケジョ”を受け入れる企業が当時は微々たるものだったことは想像に難くありません。それでも正月前に故郷の愛知県の建設会社から声が掛かり、1回の面接で入社が決まりました。
ところで牧さんの後を追って女子学生が入って来たのは、牧さんが3年になった1956年春でした。<大学と短大に1人ずつ女子学生が入って来ました。学校側が私の2年間の姿勢を認めてくれた証でもあると思い、うれし涙が流れました>。牧さん在学中、女子学生はこの建築学科の3人でしたが、卒業後は次々と女子学生が入学し始め、「マロニエ会」という女子会が結成されて、年に1回の親睦会が開かれるようになりました。
盆栽技術をマスター
建設会社入社の3年後に結婚した牧さんは、その後、出産を前に退社。育児に専念しました。子育てに手が掛からなくなるにつれて、趣味の活動を広げ、40歳から盆栽一筋に打ち込むように。その研究熱心さでたちどころに盆栽技術をマスターした牧さんは、自宅の敷地で2000鉢もの盆栽を育て、盆栽専門誌の取材を受けるまでになりました。建築の仕事からは離れてしまった牧さんですが、<工大卒業後も、私はその時その時を真剣に一生懸命に生きてきました。その都度色々と人生の勉強をしました。その思いの一端でも後輩たちに分かってもらいたいです>と書かれています。
女子学生 × 学長の座談会 「私達は不幸だ」
牧さんが卒業した2年後、1959(昭和34)年12月18日発行の大阪工大新聞に新聞会主催の女子学生と学長らとの座談会が詳報されています。当時は女子学生が7人(男子学生は約3700人)になっていました。そのうちの4人(建築学科の3年生2人、2年生1人、1年生1人)が、学長、学生部長、助教授の大学側の3人を相手に、「工科に学ぶ女性の生活と意見」というテーマで入学の動機や授業での苦労から、就職、結婚の見方までさまざまなことに率直な意見を披露しています。牧さんに続く女子学生たちの冷静な現状認識や権利意識の変化などが読み取れます。
まず入学動機。家が建築業・土木業を営んでいるからというのが2人で、残りの2人は「建築に興味」「手に職を付けたい」。大阪工大の現状については、「男女共学のはずなのに」ととても手厳しい意見が出ます。
1年生の「私たちは不幸だ」というのは学校側への強烈な一言だったようです。
3年生の現状認識と比べると、わずか2学年の違いで随分と権利意識が高まっていたことも分かります。また、次のやりとりから分かる男女共学への当時の学校側の認識の甘さ、準備不足には驚きます。
さすがにトイレや更衣室の問題の緊急性の認識は学校側にもあったようです。
男子学生に気を張って、くたくたに
男子学生との交流には、牧さんとは違って苦労もあったようです。
広島国際大開学時は過半数が女子
1980年代初期の摂南大の女子学生たち
国連が女性の地位向上を目指し定めた国際婦人年の1975(昭和50)年、摂南大学が開学。1期生は男子学生508人に対し女子学生1人でした。工学部1学部からのスタートで、女子学生は建築学科の“リケジョ”です。翌年度の入学者も女子学生は1人(建築学科)でしたが、開学4年後には在学女子学生が計13人になっていました。1998(平成10)年の広島国際大開学時は女子学生の割合は51.8%で半数を超えました。ちなみに牧さんの母校大阪工大は2021年5月現在、女子学生・院生が1059人。全体の13.4%です。