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centennial 10

学園が試された数々の災害

戦前の阪神大水害には救援隊 阪神・淡路大震災では被害調査団

FLOW No.95

学園が試された数々の災害

学園が誕生した翌年の1923年に関東大震災が起きました。多くの教員が救援に駆り出されたため、関西工学専修学校建築科の初めての卒業試験が延期されたと記録されています。以来、日本列島を繰り返し襲った数々の自然災害に学園も向き合ってきました。戦前の1938(昭和13)年に神戸を襲った阪神大水害では、数多くの生徒が救援奉仕隊として被災地に駆け付けました。戦後、学園にとっての最も大きな災害は阪神・淡路大震災です。多くの研究者を被害調査団として地震発生11日後に早くも派遣。2カ月後に出された詳細な被害調査報告書は、その後の耐震工法の見直しへの貴重な学術資料となりました。その後も2011年の東日本大震災など大災害が起きるたびに学園の多くの人々が被災者支援や調査のために現地に足を踏み入れてきました。「世のため、人のため、地域のため」の建学の精神がまさに試されるのが大災害への対応です。来年10月30日の学園創立100周年に向けた連載企画の第10回のテーマは「学園と災害」です。



「濁流の中へ人、大木、家」「六甲の山腹に悪魔の爪のキズ」

文豪谷崎潤一郎の名作「細雪」に阪神大水害の様子が描かれています。





1938(昭和13)年7月3日から5日にかけて六甲山系に降った約460ミリの豪雨で、阪神間の広い範囲を濁流や土石流が襲い、死者・行方不明者が約700人、被災家屋は11万戸以上という大きな被害となりました。当時、谷崎は住吉村(現・神戸市東灘区)に住んでいました。
この水害で被災した関西工業学校の生徒がその体験を学友会誌に寄稿しています。





今年7月の熱海の災害を彷彿とさせる土石流が至る所で起きていたのです。今の中学生の年齢の少年が書いた文章ですが、文豪に勝るとも劣らぬ描写で、迫真のルポルタージュになっています。
この水害には同校の多くの生徒が救援奉仕隊を結成し、現地に向かいました。今でいう災害ボランティアです。同じ学友会誌の巻末の「学校日誌抄」の記述です。





交通機関のストップで、大阪の学校にも大きな影響があったことが分かります。救援奉仕隊に参加した生徒も記録を書き残しています。





生徒らの記録からは惨状への驚きだけでなく、災害を冷静に見つめる技術者の卵たちの姿勢を読み取ることができます。

学園からも2人の犠牲者

戦後の災害対応でまず学園の記録に残っているのが1964(昭和39)年、前回の東京オリンピック直前に起きた新潟地震(M7.5)です。大阪工業大学学報(7月1日号)によると、学生が救援ボランティア(自動車部が救援物資輸送、土木文化研究部員9人が1週間現地で復旧工事など)や義援金活動に立ち上がり、教員らも学術調査に向かいました。
そして学園が最も大きな影響を受けたのが1995(平成7)年1月17日早朝に発生した阪神・淡路大震災でした。近代都市を襲った直下型地震(M7.3)は、死者6434人、負傷者43792人、全・半壊家屋約25万戸という戦後では当時最悪の被害をもたらしました。被害は学園関係者にも及び、大阪工大生1 人、大阪工大高(現:常翔学園高)生1 人が死亡、負傷は32人。教職員・学生・生徒の自宅被害は全壊114戸、半壊246戸でした。学園新報の記事です。





今回の“モノ” 語りのモノは、この阪神・淡路大震災で学園内の教員らが被災地で行った被害調査団の報告書です。土木技術者としての経歴もあった当時の藤田進総長・理事長の呼びかけで結成。竹内吉弘大阪工大短期大学部学長・大阪工大教授を団長に、土木、建築、地盤工学などを専門とする大阪工大、摂南大、大阪工大短大の研究者26人を「地震・地盤」「土木構造物」「建築構造物」の3班に分け、広報課員3人と大学院生11人も加わりました。調査は地震発生の11日後の1月28日から29日の2日間、被害の大きかった兵庫県尼崎市から神戸市長田区に至る地域で実施。班によっては追加調査もしました。震災1カ月後の2月17日には、学術調査報告会が大阪工大大宮キャンパスで開催され、約100人が聴講し、メディア6社が取材する関心の高さでした。ビルや橋梁、高速道路などの土木構造物の未曽有の被害は、それまでの耐震工法の新たな弱点をさらけ出し、社会全体が専門家による客観的な報告や分析を待ち望んでいたのです。

調査団の目の前には荒涼たる光景

阪神・淡路大震災で倒壊した阪神高速道路(深江出入口付近)
=井上晋大阪工大学長撮影

当時大阪工大建築学科助教授として調査団のメンバーに加わったのが若き日の西村泰志学園理事長です。調査団より数日前に大阪から船で被災地入りし、神戸市内を隈なく見て歩きました。そこには鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)構造を研究していた西村理事長にとって衝撃的で荒涼たる光景が広がっていました。「1978年の宮城県沖地震(M7.4)でも被害が少なく、強くて丈夫だと思われていたSRC造建物が軒並み甚大な被害を受けていました」と振り返ります。1階や中間階の落階のほか、柱梁接合部や柱脚接合部、接手接合部の接合部被害も多く見られ、西村理事長のその後の接合部研究を更に推し進める体験となりました。その研究成果は2018年の日本建築学会賞受賞で実を結びました。「大地震のたびに建築の課題が明らかになり、研究が大きく進歩したのです」と話す西村理事長だけでなく、学園のさまざまな研究者に大きな課題を与えたのが阪神・淡路大震災でした。

世のため、人のために

学園に直接の被害がなかったものの津波とその後の原発事故で戦後最大の災害となった2011年の東日本大震災では、学園全体で支援活動の輪が広がりまし た。当初の募金活動、現地でのボランティア活動をはじめ、調査研究やさまざまな被災地支援プロジェクトが今も続いています。2018年7月の西日本豪雨では広島国際大の東広島キャンパスに土砂流入などの被害が出ましたが、学生、教職員、卒業生が一丸となって復旧作業に当たっただけでなく、学生たちは近隣地域の復旧ボランティアとしても活躍しました。



西日本豪雨での復旧作業をする広島国際大の学生ら

東日本大震災の募金活動をする摂南大生









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