1. HOME
  2. 学園広報誌「FLOW」
  3. 常翔100年❝モノ❞語り
  4. 学生新聞が伝えた戦後キャンパス

centennial 08

学生新聞が伝えた戦後キャンパス

戦後の解放感と表現の喜びが紙面に
若者らしい権威への反抗も

FLOW No.93

学生新聞が伝えた戦後キャンパス

インターネットの出現で誰もが容易に情報発信できる世の中になりましたが、ネット社会以前は、情報発信の手段はほとんどが紙のメディアでした。第2次世界大戦後、1949(昭和24)年に新制大学として再出発を果たした大阪工大でも開学から間もなくの1950年に学生新聞「大阪工業大学新聞(大阪工大新聞)」が創刊しました。1960年代、70年代になるにつれ全国的な大学紛争の拡大とともに学生新聞の紙面も先鋭的な政治的テーマやイデオロギーの主張に支配されていきましたが、創刊当初はまだどこかのどかな紙面で、常翔歴史館に残る紙面や創刊15周年の縮刷版は当時の学生生活や世相をうかがい知る貴重な史料になっています。戦後の貧しさからまだ抜けられないながら、戦争からの解放感と表現することの自由を手に入れた喜びが紙面から感じられます。今回は創刊当初の大阪工大新聞を手掛かりに、開学間もない大阪工大の学生たちの生の声に耳を傾けます。


創刊当初は手書きの謄写版(ガリ版)印刷だった紙面

創刊15周年に発行された縮刷版

学生の切実な思いを代弁するメディアを

大正年間(1912~26年)に次々と創刊された大学の学生新聞=年表=ですが、昭和初期から第2次世界大戦中にかけて他のメディアと同様に受難の時代を迎え、自由にものが言えない、書けない言論弾圧が続きました。戦後は多くの新制大学の誕生もあり、次々に再刊、創刊され、一気に表現・言論の自由を謳歌し始めました。大阪工大新聞もその1つです。創刊5年の特集号で、新聞創刊時のことが回顧されています。


<私が入学したのは昭和廿五年(1950年)だがその頃は、この様な新聞は勿論なかった。…東西の両中庭には空襲で焼けてしまった木造校舎の基礎がそのまま残っていたし…実習に用いられたと思われる機械の残骸が赤錆のままであちらこちらに放置されていた。中央本館も直撃弾があったと云う話しで雨が降れば図書館は水だらけ、電灯の処からもれる水を板で応急に樋を作り窓から外へ出していた。…教室と廊下との間の窓や扉は殆どガラスは割れてしまっていて、ベニヤ板や杉板等でやっと塞いでいた。…この様な環境の中に我々は大学生活の大半を過ごしたのである>


クラブ活動の社会科学研究部(社研)のメンバーが週刊紙を出したのが発展しました。


<当時の大学の状態が前述の如くだったので学生の多くは不満に満ちていた。…集まると必ず校舎の貧弱な事を嘆き、教授陣の手薄を論じた。学生大会でも必ず採り上げられた議題は教授陣の強化であり、設備の拡充であった。この忿怒(ふんぬ)を私は学校当局に知らせ学生間の与論を掻き立てたかった。そのために週刊紙の発刊を思い立った。…二人で半紙大のガリ板刷の工大週報なるものを発刊した>


戦後の貧しさの中で、少しでも大学を良くしたいという切実な思いから、学生の声を代弁するメディアが求められたことが分かります。この「工大週報」は7号まで出ましたが、次第に「もっと本格的な新聞を」との要望が高まって新聞部が作られ、1951年には大阪工業大学新聞社が設立されました。

学生自治会とも距離

学内メディアである大学新聞は、大学当局とだけでなく学生自治会(学生会)とも適度な緊張関係を持っていたようです。



全国初の授業放棄ストライキとは驚きです。

学生新聞の存在価値を議論

1950年代の大学進学率は10%以下でした(1959年で男子13.7%、女子2.3%、全体で8.1%)。大学生であるだけで社会ではまだエリートと見なされた時代です。しかも、彼らは戦争の理不尽さを身に染みて体験した世代でした。戦争を引き起こし、止められなかった旧世代や権威に反発し、反抗するのはある意味自然で、政治的な関心の高さも現代とは比べ物にならなかったでしょう。紙面からは政治との距離の取り方など学生新聞の存在価値について本当に真面目に考えていたことが分かります。

寮祭で仮装行列する大阪工大生ら=1950年代


<常に社内の問題となったのは「学生新聞のあり方」についてである。目的と範囲はどこに置くか、客観的、つまりどの程度の第三者的立場に立つべきか、政治記事は如何にあつかうか、等の問題が、総会を行なう毎に出てくるのが常だった。…学生新聞関係者は、ともすると左翼がかった誤解を受けると云う不安で、一つの記事の取り上げ方に非常に慎重をきたしたことがある。特に気をつかって論議したのが、沖縄関係の記事だった。…我々としては人道主義的立場よりこれくらいのところまではと云う線を出して編集したつもりだったところが、出来上がって見ると穏健そのもので骨のない記事となり心ある人に対しては多少不満を持たせたかも知れないと思っている>=同

直撃インタビュー

硬派な記事や論説も多い中で、ルポルタージュやインタビュー記事などが戦後の解放感をより強く感じさせます。キャンパス内にあったいくつかの売店のことを「商店街」と呼んでいたようですが、学生の不満の声をもとに店主に直撃インタビューをしています。


<記者“商店街が高いという投書が来てますが” 店主「問屋回りをして安価な物を仕入れて売る様にしています。中には高いものもあるかもしれませんが、特に本等は定価より引いていますよ…」…記者“四、五月頃は大分利益があるんじゃないですか” 店主「四、五月頃に稼がしてもらわないと、後は赤字ですので食べていけないのです」…>=1951年12月(第3号)


店主側の言い分もきちんと掲載しています。

禁男の女子大探訪

戦後長らく大阪工大は実態として男子校のような状況でした。戦前なら決してあり得なかったよう“女子大(神戸女学院)探訪記” も登場します。


<駅に下り立つと急に景色がよくなる。…女学生が三々五々岡田山から下校して来るのが分かって、思わずH君「ううん」と唸ることなかなか久しい…>=同


女子学生に道を尋ねますが、じゃんけんでどちらが声を掛けるか決めます。学生記者2人の興奮具合がほほえましい。

就職戦線を解剖する

就職への関心の高さは今も昔も変わりません。


<大学を卒業すれば何とかして大企業へ就職しようとするのがほとんどの学生の持つ考えであろう。…大学の価値評価の一つとして就職状況がそのバロメーターをなしているといっても過言ではあるまい。…新学期が始(ま)ると同時に就職戦線が火ぶたを切るのであるが、学生は縁故から縁故へ又就職関係の教授は学生のウリ込みに大童(おおわらわ)となるのである。之と同時に経営者側でも優秀な学生獲得の為に求人も年々早められつつある。早期求人されると落着いて勉強ができないし又、学業がおろそかになるという点より昨年より文部省と大学側と会社側の協定ができ十月以降より始められることになった。…採用方針として一応「採用試験による」といっているがこの裏には…縁故関係、学閥、スポーツによるもののいはゆる〝コネ〟といったものが相当に巾をきかしている>=創刊5年特集号


1950年の朝鮮戦争と冷戦の始まり、GHQによるレッド・パージという時代背景をうかがわせる記述もあります。


<…思想問題は…一応は重要視されている。学校の推薦状には思想の項があり、大抵は思想穏健と記されるのである。面接に及んで〞何党を支持するか〞の問(い)に保守党と相場が決(ま)っていた様だが、最近では無理に曲げて答えるとかえって怪しまれるという傾向があり、率直に自分の意見を述(べ)た方がかえっていいようである。…>=同


思想・信条の調査は就職差別につながり、憲法違反ですが、当時これほど公然と行われていたのは改めて驚きです。


止められなかった読者離れ

現在、学生新聞はごく一部の大学に残るだけです。メディアの多様化や若者の活字離れ、政治離れなどさまざまな理由が重なっています。大阪工大新聞創刊100号(1962年11月1日)に当時の関西大学新聞学科の金戸嘉七教授が「学生新聞論」を寄稿し、その中で大阪工大新聞について<だいたいにおいて高い調子で物をいっている>と指摘しています。今で言う「上から目線」ということです。それは他の学生新聞にも言えることで、論説や主張を重視するあまり<一般的なニュースが比較的軽視され…往年の政論新聞を思わせる…><書きたいことを書けばよいといった態度では、新聞の持つ大衆伝達の機能を果たしたことにはならぬ>と批判。<人間臭さが満ち…学生生活の哀歓が奏でられる>説得力のあるニュース報道を重視しないと、読者離れを止められないと警告しています。残念なことに、その後の多くの学生新聞はこの警告通りの運命をたどることになりました。大阪工大新聞は1977年まで発行されました。





常翔100年❝モノ❞語り