成清 哲也 教授

広島国際大学 健康科学部 医療経営学科

コロナ禍での医療崩壊危機
戦後システムの制度疲労と医療を市場原理に任せたツケ

FLOW No.94

成清 哲也
Profile
なりきよ・てつや 1980年東京理科大学工学部第二部経営工学科卒。2007年東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科医歯科学専攻医療管理政策学コース修士課程修了。1980年東京医科大学入職。医療サービス部門、情報システム部門、経営企画室室長を歴任。2017年広島国際大学医療経営学部医療経営学科教授。2020年から現職。北海道大学大学院、神戸大学大学院非常勤講師。日本医療情報学会常任幹事。修士(医療管理学)。福岡県出身。

民間病院批判は的外れ

医療に関しては世界トップレベルを自負してきたはずの日本ですが、2019年末に始まった新型コロナ禍が進むにつれて、国民の間に大きな疑問が生まれました。「欧米などに比べて感染者数ははるかに少なく10分の1以下で、しかも医療が進み病床数も世界一の日本でなぜ医療崩壊が懸念されるような事態になったのか」という疑問です。実際に大阪などでは、感染しても病院に入院できずに施設で亡くなる高齢者や、自宅療養を強いられた感染者が急変し亡くなるという悲劇が相次ぎました。「9割を占める民間病院の協力が十分でないからだ」との声も聞かれますが、危機の本当の原因は何なのか。東京の大病院の経営に携わり、今も病院に経営のアドバイスを続けるなど医療現場の実情に精通する広島国際大医療経営学科の成清哲也教授に聞きました。

高機能医療に対応できない「病床数世界一」

私は新型コロナによる日本の医療崩壊を考えるうえで、諸外国と比較する空間軸と歴史から学ぶ時間軸の2つの軸が大切だと思っています。

まず諸外国との比較では、確かに日本の人口1000人当たりの病床数13は世界で突出して多く、例えば米国と比べると4倍以上です。ところが新型コロナで求められる医療は、救命措置ができる高機能病棟で行われるため、ICU病床や専門医が必要です。そこでICU等病床数、医師数、看護師数を比べると、ほとんどで日本は欧米に大きく見劣りします=表1。これでは新型コロナに効果的に対応することはできません。これは「民間病院の協力が少ない」といった問題ではなく、これまで日本が作り上げてきた医療システムの問題で、人的リソース割り振りという国家戦略の結果なのです。そもそも民間病院には感染症専門医が少なく、中小病院が多くてコロナ患者のゾーニング(区分け)すらままならないために受け入れは困難だったのです。

ガラパゴス化した日本医療

次に日本の医療システムを歴史的に見ましょう。第2次世界大戦後に、日本の復興を急ぎ、民間の活力を利用しようとしたGHQの指導の下に出来上がっていったのが現在のシステムです。すなわち、(1)国民皆保険、(2)患者が病院を自由に選べるフリーアクセス、(3)医師の自由開業制、です。これを私たちは当たり前と思っているかもしれませんが、世界でもまれなシステムで、例えば英国では市民は住んでいる地域でかかりつけ医が決まっていて、患者は病院を自由に選べません。フリーアクセスと自由開業制はまさに市場経済のシステムです。そのため民間病院は経営努力が求められ、仮に潰れても国が助けてくれることはまずありません。民間病院が市場経済の原理に基づいて運営されていることを鑑みると、民間病院にコロナ対応のインセンティブはありません。

このシステムの下、公衆衛生が一挙に広まり、医療技術の向上や医療設備の普及もあって、日本は世界一の長寿国を達成しました。この珍しいシステムがあまりにもうまく最適化し、いわばガラパゴス化してしまったことで、長年の制度疲労を見逃してしまったのです。今回の新型コロナ禍ではそれがあだになったと言えます。米国の経営学者クレイトン・クリステンセン(1952~2020年)が指摘した「成功のジレンマ」(成功が更なるイノベーションの足かせになる)です

島国の日本は水際対策重視頼みの保健所も30年で半減

新型コロナ禍が浮き彫りにしたシステムの制度疲労を見ていきます。日本の感染症対策は長く水際対策つまり検疫が中心でした。島国という地形的な有利さもあり、新型コロナ以前はそれがうまく機能しました。検疫という上流で食い止めれば、下流が被害を受けることはないという戦略です。ところが新型コロナウイルスという新たな敵は、あっさりと水際をすり抜けていきました。上流のダムが崩れて、下流の病院が洪水に見舞われたのです。水際戦略の成功体験が根拠なき自信を生んでいたのです。

過去の感染症の細菌やウイルスと違う新型コロナウイルスの大きな特徴は、発症2日前からウイルス量が多いことと無症状者が多いステルス性(見えにくさ)です。検疫で正しく陽性と判定できずに感染者を見逃すと市中感染につながります。人間に感染するコロナウイルスは、SARS、MERS以前は4つしかありませんでした。SARS、MERS は日本では幸いにも感染者が発生せず、新興感染症の対策が水際対策重視の細菌時代のままになり、それがウイルス時代に機能しないことが新型コロナウイルスで明らかになったのです。

検疫をすり抜けて感染が広まってしまうと、次の頼みは保健所ですが、その保健所もこの30年近くで半数近くに減らされていたのです。地域の感染症対策は保健所の大きな役割で、PCR検査や濃厚接触者の疫学調査などのプロが仕事を担います。しかし、抗生物質などの登場で戦後、感染症が一気に減りました。また、スペイン風邪(1918~20年)の時代を除いて、長らく結核が死因順位1位を占め、感染症の対応は重要な課題でしたが、近年は悪性新生物、心疾患、脳血管疾患が上位を占め、感染症対策の重要性が薄れました。ついには1994年、保健所法が改正された地域保健法で保健所は行政改革の対象になり、ピーク時の半数近くに減ったのです。公的部門に市場原理を適用したのです。この状態で新型コロナウイルスのパンデミックが起きると保健所機能はまひし、市中感染をコントロールできず、下流の高度な医療機関はその波を直接受けてしまいます。大阪府などでは濃厚接触者の調査を家族だけにせざるを得なくなり、市中感染が一気に拡大しました。

最後の頼みとなったワクチン接種ですが、日本はワクチン開発でも世界に遅れを取りました。過去の副反応問題もあって、製薬会社にはリスクを冒してまで開発するインセンティブがなかったうえに、政府の開発費支援も欧米と比べて桁違いの少なさでした。一方でGoToキャンペーンやアベノマスクに積極的に金を出した政府のコロナ戦略は小出し小出しで、理解しやすいストーリーがなく、 国民は我慢を強いられ、不満だけが溜まりました。

水際対策と保健所の検査・調査機能が十分な効果を発揮できず、感染症や救命救急の専門医、ICU病床、感染病床などの高機能医療の圧倒的な手薄さ、ワクチン開発の遅れも重なり、医療崩壊の危機につながったと言えます。

社会共通資本としての医療を

新型コロナウイルスが見つかる直前の2019年9月、厚生労働省が全国の公立・公的病院の424病院を「経営が非効率で医療財政を圧迫する」として再編統合の必要があると名指し公表しました。医療費削減を目指す国の地域医療構想=図=でも急性期病院や過剰病床の削減が進められてきました。市場原理からすると理にかなっていますが、皮肉なことに今回の新型コロナへの対応で大活躍しているのが名指しされた多くの病院です。平時にムダと見られたものが、有事には医療の「のり代」としてレジリエンス(柔軟性)の機能を発揮したのです。新型コロナが浮き彫りにした最も大きなことは、「医療を市場経済にこのまま委ねていいのか、それとも社会共通資本として市民は応分の負担をするのか」という問題なのです。効率重視の市場経済は一方で不公平も生みます。424病院が公表された時にはその地元の住民に大きな不安や反発を呼びました。市場原理だけでは医療の地域間格差は拡大します。<効率的な配分の中でより公平的なものを実現するためには、政府の介入が必要><大幅に市場に介入したり市場を否定するのではなく、一括補助金と一括固定税を使った所得再配分という(市場の機能を損なわないような)限定された政策を行ったのち、市場を使って資源配分すればよい>という厚生経済学の視点が参考になると私は考えます。

新型コロナから得るべき教訓は、成功のジレンマから脱出し、根拠に基づいた議論を重ねて制度疲労した医療システムを見直すことです。beforeコロナの時代に戻らせないという覚悟が必要です。新型コロナに「日本の医療はこのままでいいのか」と国民は課題を突き付けられているのです。

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