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centennial 01

松浦 清 教授 × 吉村 英祐 教授

大阪工業大学

特別対談
~片岡安の描いた夢は100年でどこまで実現したのか ~

FLOW No.84

松浦 清 教授 × 吉村 英祐 教授
Profile
◆まつうら・きよし 常翔歴史館館長、工学部総合人間学系教室教授 1987年東北大学大学院文学研究科美学・美術史学専攻修士課程修了。大阪市立博物館学芸員などを経て、2001年大阪歴史博物館学芸課係長。2004年大阪工業大学知的財産学部助教授。2012年同工学部総合人間学系教室准教授。2017年同教授。2019年常翔歴史館館長を兼務。
◆よしむら・ひでまさ 工学部建築学科教授 1980年大阪大学大学院工学研究科建築工学専攻修士課程修了。小河建築設計事務所勤務を経て、1993年大阪大学助教授。2000年同大学院工学研究科助教授。2007年大阪工業大学工学部建築学科教授。2007年日本建築学会賞(論 文)。日本建築学会各種委員を歴任。博士(工学)大阪大学。

防災都市、街並み景観、人材育成
大阪の基礎作りで花開いた先見性



常翔学園は2022年10月に創立100周年を迎えます。大正、昭和、平成、令和と4つの時代を通じて戦争や災害をはじめ大小さまざまな波を乗り越えて成長、現在に至ります。学園の起源である関西工学専修学校が、産業の発展を支える中堅的工学技術者養成の目的で設立されたように、その100年はモノづくりで大阪、さらには日本を支え続けてきた歴史でもあります。そんな学園の100年を今に残されたさまざまな“モノ”を証人に振り返っていきます。
第1回は特別企画として学園初代校長で日本の近代建築・都市計画のパイオニアでもあった片岡安の夢見たことを大阪に残された建築などの“モノ”を手掛かりに、常翔歴史館新館長に就任した松浦清・大阪工業大学工学部総合人間学系教室教授と片岡建築にも詳しい吉村英祐・建築学科教授のお二人に振り返ってもらいます。

                                 進行役は西田太郎・広報室長兼創立100周年記念事業事務室長

常に人間のことを考える姿勢

建築家、都市計画家、教育者、経済人、市長など多彩な顔を持つ片岡ですが、お二人は歴史家と建築家で、教育者でもあります。改めて片岡の先見性をどう評価されますか?

松浦:昨年7月に大阪くらしの今昔館で開催した「大大阪モダニズム 片岡安の仕事と都市の文化」に吉村先生とともにかかわったのですが、片岡が総合的な見地で100年先の大阪を見据えていた人物だったということを再認識する機会になりました。中之島の中央公会堂100周年を記念した展覧会でもありましたが、当時は大阪が東京を抜いて日本一の人口になった「大大阪」と言われた時代です。中央公会堂は実施設計をしたのが片岡でしたが、片岡がかかわった建築や都市づくりを見ると、学園の建学の精神にある「世のため、人のため、地域のために理論に裏付けられた実践的技術を」という主旨を体現していると実感します。

吉村:片岡はまず都市に大きな関心を持っていました。当時、ニューヨークやロンドンなど世界の大都市では10年ごとに100万人の割合で人口が増え都市問題が起きていました。大阪も人口が急増し、市域が膨張していたのに、さまざまな問題に対処する法律すらありませんでした。片岡は当時の東京市にだけあった建築規則を大阪など6大都市にも準用するように内務省に働きかけ、すぐに都市計画法が生まれました。次に住宅問題も重視しました。庶民の不満が暴動に発展した1918年の米騒動の起きる前に、「都市に住む庶民の良好な住宅地を整備するべきだ」と主張していたのです。これが当時の大阪府箕面村(現・箕面市)の桜ケ丘の住宅改造博につながりました。また、関東大震災(1923年)や室戸台風(1934年)を身近に体験したこともあり、防災にも関心を持ち、「災害に強い都市を」とも訴えました。第二次世界大戦前に焼夷弾の恐ろしさを理解し「落とされたら大阪が壊滅する」とも予見していました。こうした片岡の先見性の根底には、建築のことだけでなく常に人間のことを考える姿勢がありました。

画家たちをも魅了した「100年建築」

今も関西周辺には片岡が設計にかかわった建築物が数多く残っています。片岡が大阪、ひいては日本の近代建築に残した功績を建築物という“モノ”を例にお話しください。

吉村:片岡建築に共通するのは意匠などの文化的側面だけでなく、防災を重視して丈夫に造ることを大前提にしていることです。災害の体験から、耐震、耐火にうるさかったのです。例えば片岡が設計し今も兵庫県芦屋市に残る仏教会館(1927年~)は、阪神・淡路大震災(1995年)でも被害が非常に少なかったのです。周辺にあった近代建築物が軒並み倒壊した中で残ったのです。片岡建築を見ると、「残したい」という強い思いを感じます。物理的にも文化的にも片岡建築は「100年建築」と言えるものです。

松浦:片岡建築はさまざま残っていますが、特に大大阪時代の象徴である中之島地域の景観と片岡建築は切り離せません。当時から中之島は洗練されたモダンな空間でした。欧米、特にパリのシテ島を意識して整備されたものですが、その景観に触発されて小出楢重、池田遙邨、佐伯祐三、国枝金三ら多くの画家が作品を描きました。それらを見ると「これが大阪か」「まるでヨーロッパの街だ」と錯覚するような風景です。画家たちが描きたくなるような街づくりを片岡はやったのです。

芦屋の仏教会館

今年は日本に都市計画制度が成立してちょうど100年です。片岡はその黎明期の都市計画の分野でも大きな役割を果たしました。大阪の街並みの景観などにも片岡の考え方が反映していると言われますね。

吉村:片岡は道路の大切さも分かっていました。大阪の「100年の計」を見通して、当時の関一市長とともに御堂筋を拡幅整備しました。そのころの大阪市のメイン・ストリートは堺筋でしたが、道幅が不十分で「これからの大阪発展には道幅43mの道路が必要」と考えたのです。当然「飛行場でも作るのか」と大きな反対に遭いました。それほどの先見性を持っていたのです。これは地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅の長さを見ても分かります。地下鉄開業当時の1両編成の車両には長すぎるプラットホームですが、現在の10両編成にはちょうどいい。また、御堂筋の両側に建つ建物は軒高100 尺(30.3m)で揃うように整備されましたが、これは片岡が制定にかかわった市街地建築物法の施行令に定められた絶対高さ制限によるものです。結果としてヨーロッパのような美しい街並みが実現しました。御堂筋の整備は片岡の都市計画家としての満足感からではなく、「大阪の真の発展のために」という強い信念がありました。信念を実現する政治力や人脈、さらに何よりも情熱を持っていたのです。片岡がいなければ大阪はどうなっていたのか、と思います。

片岡の都市改造の遺産と言える現在の御堂筋の街並み

片岡は建築や都市計画において、防災や耐震をどう考えていたのですか?

吉村:片岡は関東大震災に強く影響されて、耐震・耐火建築について自分が組織した日本建築協会の会誌「建築と社会」に何度も寄稿し警鐘を鳴らしました。当時の建築家としては異例です。「災害のたびに建築物が壊れていたら、文化も蓄積できない」ということをしばしば訴えています。芦屋の仏教会館には今の免振装置のような工夫がされているという情報もあります。とにかくこれから何が必要かを見抜く力の凄さに驚きます。

松浦:片岡が書いたわが国初の都市計画の専門書「現代都市之研究」(1916)がありますが、そこで日本が欧米から遅れていた都市改造の必要性を明確に述べています。単に1つの建物や1本の道路の話ではなく、防災なども含めた広い視野で都市を見据えています。ちなみに関東大震災では作家の谷崎潤一郎が芦屋に移住するなど、阪神間に洗練された文化が生まれるきっかけにもなりました。「阪神間モダニズム」と言われますが、それが成立するのは、片岡らがかかわった「大大阪モダニズム」があったからです。

生き続ける建学の精神

片岡は都市計画という未来を夢見ることに長けた人物だったとも言えます。未来を担う工学人材を養成するために関西工学専修学校も作りました。この100年で片岡が夢見たことはどこまで実現したと言えますか?

松浦:片岡が目指したものは普遍性のある基本的なことです。中央公会堂の実施設計を担ったように、現場で技術を使って現実を動かしていくための基礎力を重視しました。片岡の仕事には基礎の重要性が表れています。まさに建学の精神にある「理論に裏付けられた実践的技術」です。これは大大阪時代以来、大阪の発展を支えてきた精神で、今後も100年を超えてずっと受け継がれていくものだと思います。

吉村:当時は建築現場に技術の分かる人材が不足していました。発展する大阪では切実な問題で関西工学専修学校の開設につながりました。その若い学生たちに常に言っていたことは「社会に出てからも勉強を怠るな」ということでした。また片岡事務所で設計した建物の建築現場では、手抜きを一切許しませんでした。特に見えない所の基礎工事にはうるさかったと言います。教育と同じで基礎を重視したのです。建学の精神の通りに「なぜこう作るのか」という理論を重視しました。現場の大切さは100年の時代を超えて普遍の真理ですね。片岡は戦後すぐの1946年に亡くなりましたが、焼け野原になった大阪を「さあこれからリセットしよう」という時で、さぞかし無念だったに違いありません。その後、高度成長時代にはルールが追い付かずに、片岡の理想から離れた密集市街地があちこちに生まれてしまいました。片岡が夢見たことの多くは現代に花開いています。もし今も生きていたら、また新しいことを夢見ていたに違いありません。



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