52年前の東京パラリンピック NHKのテレビ映像を分析
「障がい者スポーツ認知の契機」を実感

1964年の東京パラリンピックの正式名称は「国際身体障害者スポーツ大会」でした。当時「パラリンピック」は大会の愛称で、東京大会で初めて使われました。その言葉自体が目新しく、障がい者がスポーツすることへの社会の理解もまだ進んでいない時代でした。広島国際大で体育の授業を担当し、スポーツ教育やスポーツ史を研究する崎田嘉寛講師は、NHKアーカイブス(埼玉県川口市)が所有する当時のテレビ放送の映像を発掘、基礎資料として整理しました。音声があまり残されていないなど不十分な映像からでも半世紀前の大会の意味が浮かび上がっています。

PROFILE
広島国際大学 工学部住環境デザイン学科  
崎田 嘉寛
 講師

1999年広島大学教育学部教科教育学科(体育教育学専修)卒。2004年同大大学院教育学研究科文化教育開発専攻博士課程後期単位取得退学。2006年から現職。博士(教育学)。福岡県出身。

NHKのテレビ映像を研究しようとしたきっかけは何ですか?

崎田

NHKが研究者を対象に募集したアーカイブスの学術利用「関西トライアルⅡ」に「障がい者のスポーツの記録と物語」として応募し認められたことです。私はスポーツ史も研究していてちょうど新しいテーマを探していたのですが、パラリンピックの映像による歴史的研究が少ないことに気付いたのです。そのための基礎資料としてNHKの映像を発掘・整理することにしました。

NHKアーカイブスは過去に放映した番組情報(番組名、放送日、放送時間、放送局、副題、内容の概要、映像)をデータベース化しています。キーワードで検索が可能で、「東京パラリンピック」や「障がい者スポーツ」などのキーワードで引っ掛かった映像を視聴することから始まりました。NHKの大阪放送局に何度も通い、NHKアーカイブスから送ってもらったDVDをひたすら視聴することを繰り返しました。

発掘したテレビ映像を、1961年1月から東京パラリンピックの開催1年前の1963年11月8日までの「準備期」、1年前から開催翌月の1964年12月までの「開催前後」の2期に分けて整理しました。

少ない競技の映像 福祉的側面を強調する放送

まだパラリンピックが社会にあまり認知されていない時期ですが、テレビでどれくらい取り上げられたのでしょうか。

崎田

予想より放映数が多かったのに驚きました。準備期はニュースが9件、ニュース以外の番組が5件ですが、開催前後になるとニュース33件、ニュース以外で14件確認できました。特に1964年の大会期間(11月8日~14日)を含む前6日間、後6日間を合わせた期間は時間帯を問わず連日放映されています(表参照)。1964年のNHKテレビ受信契約数は約1713万件でまさにテレビ時代が始まった時期です。テレビ放映でパラリンピックの認知度が一気に高まったと推測されます。

実は東京パラリンピックを開くかどうかはすんなり決まったわけではありません。「障がい者に人前でスポーツをさせていいのか」と否定的に見る社会的風潮もあり、行政機関が懸念したのです。

具体的な映像から見えてきたものを教えてください。

崎田

スポーツ大会の放送には間違いないのですが、障がい者の社会復帰問題を強調する福祉的な側面が強い印象です。セレモニーなどの映像は多いのですが、最近のパラリンピック報道と比べて競技の映像は少ないです。大会期間中、車椅子の日本人選手がインタビューに答えて「我々の上半身は健康な人と何も変わらない…。ペンを取れ、そろばんを持てと言われれば十二分に我々は持てる体なんです。下半身はダメなんだから家で寝かせておいたほうがいいんじゃないか、と言うような事業主並びに世間一般の人の見る目というのは〈中略〉問題じゃないかと思うんですよ」と訴えています。そんな時代だったのです。

少ない競技映像の中でも車椅子バスケットボールの試合中継があります。「団体スポーツもできる」ということを示す啓蒙的な意味もあったのではと思います。また、皇室の方々の映像が多く、皇室がパラリンピック開催を推進したことと初の国際的な大会なので日本を強調する意図があったのかもしれません。

初めてのパラリンピック放送の意義は何だったのでしょうか?

崎田

パラリンピックは新聞や雑誌でも報道されました。しかし、障がい者がスポーツ競技で体を動かしているところを見せることができたテレビ映像は大きな意味を持っていました。障がい者スポーツを社会に認知させ、障がい者は部屋やベッドでおとなしくしている方がいいといった偏見を取り除く契機になったはずです。今やパラリンピックは見るスポーツともなっており、プロの競技者までいて隔世の感があります。

スポーツ研究者の強みを生かした歴史的映像の分析という新分野

映像を使ったスポーツ史の研究はまだまだ少ないそうですね。

崎田

実は当時の映画会社大映による「東京パラリンピック 愛と栄光の祭典」という公式記録映画が撮られています。今では見られずフィルムが残っているかどうかも分かりません。もしそれが見つかればNHKアーカイブスとともに貴重なパラリンピック資料になることでしょう。私のようなスポーツ研究者がスポーツの歴史を研究する意味は、走り方や跳び方などの動きを分析できる強みを生かせるということです。そのためにこうした映像は欠かせないのです。

私はもともと学校体育の歴史を研究してきました。戦後は「兵力増強」の負のイメージが強く、学校教育での子供の体力増強に迷いがありました。しかし、1964年の東京オリンピックをきっかけに社会が「金メダルを目指すには体力増強が必要だ」という考え方にシフトしていきました。オリンピックやパラリンピックの教育への影響はとても大きかったのです。

最近、1932年のロサンゼルスオリンピックのニュース映像を入手しました。分析・研究はこれからですが、これ以外にも長野パラリンピックの映像も取り上げたいです。スポーツの歴史的映像の研究という新しい分野を開拓したいですね。

東京パラリンピック=世界22カ国375人が9競技144種目に参加。海外からの選手が参加した第1部「第13回ストーク・マンデビル競技会」(11月8日~12日)と日本人選手だけの第2部「身体障害者スポーツ大会」(同13日、14日)に区分され、厳密には第1部がその後「第2回パラリンピック夏季大会」と位置付けられるようになった。パラリンピックはもともとパラプレジア(Paraplegia=下半身麻痺者)とオリンピック(Olympic)の造語だったが、IOCが1985年のソウル大会からパラリンピックを正式名称とし、半身不随者以外も参加するようになったことから、パラレル(Parallel=平行)+オリンピック(Olympic Games)で、「もう一つのオリンピック」として再解釈することになった。

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