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centennial 02

学園誕生の「1922年」とは?

都市整備が進み急成長する大阪 希望と不安の時代に学園が産声

FLOW No.85

学園誕生の「1922年」とは?

2022年の学園創立100周年に向けた連載企画の第2回は、学園の起源の関西工学専修学校が設立された1922年(大正11年)がどんな年で、どんな時代だったのかを振り返ります。大正デモクラシーが進み、急成長する大阪市では大衆文化が花開き活気に満ちた時代ですが、その一方で第1次世界大戦終結とともに大戦景気が去り、再び不景気が到来。ヨーロッパではファシズムが台頭し始めていました。未来への希望と不安が錯綜し、激動し始めた時代の真っただ中に常翔学園は産声を上げたのです。

道路計画が目立つ1919年の「大阪市区改正設計図」(部分)

■ 時代状況
大正デモクラシーの高揚とファシズムの影

 今回手掛かりとなるモノは、大阪市の古い2枚の都市計画図です。それを詳しく見る前に当時の時代状況を概観します。

 大正末期の1922年。前後の年表を眺めると、その姿が浮き彫りになってきます。

 明治維新後、日清戦争(1894~95年)と日露戦争(1904~ 05年)の勝利を経て西欧列強の仲間入りを果たした日本でしたが、日清戦争と違い日露戦争ではロシアからは賠償金を取れず、莫大な戦費の後遺症で長い不景気に苦しみました。そこにヨーロッパで 第1次世界大戦が勃発(1914年)すると、一気に大戦景気に沸き、アジア諸国への輸出が急増。日本は一気に債務国から債権国に転じました。なかでもアジアにも近い大阪は、繊維、化学、造船などの工業化が進み、「東洋のマンチェスター」として成長。多くの労働者が流入し、人口も東京を抜き日本一になり「大大阪」時代を迎えます。

 ところが1918年に第1次世界大戦が終結し、ヨーロッパ各国が市場に戻り始めると輸出が一転不振となり、余剰生産物が大量に発生して景気が再び下降していきました。1919年以降は輸入超過となり、1920年3月に「戦後恐慌」を迎えます。株価が大暴落し、4月から7月にかけて銀行の取り付け騒ぎが続出。21の銀行が休業に追い込まれます。1921年には原敬首相が暗殺され、ドイツではヒトラーがナチス党首になるなど社会を覆う暗い影が濃くなっていきました。

 一方で、経済の急速な発展や近代化で一度目覚めた自由主義や民主主義の思潮、市民文化や大衆文化の流れは止まりませんでした。いわゆる「大正デモクラシー」です。普通選挙や言論・結社の自由を求める運動、労働運動、男女平等や部落差別解放を求める運動が展開しました。現在の私たちにも身近な多くの文化、芸術や芸能、スポーツ、会社や製品も生まれました。第1次世界大戦終結の1918年から学園創立の翌年1923年までの内外の主な出来事を年表で追ってみると、まさに明と暗が入り乱れ、社会が大きく動き始めた時代だったということが分かります。



工業化で工場の煙突が林立し「煙の都」とも言われた1925年ころの大阪

■急成長する大阪市
現場技術者の不足と人材育成のための工業教育の要請

都市計画図について語る岡山教授

 こうした時代を背景に常翔学園は誕生しました。不景気が始まっていたとはいえ、大阪市をはじめ大都市が急成長し、市民生活がどんどん近代化されていった時代です。関西工学専修学校設立時の校主の本庄京三郎、校長の片岡安、理事12人の計14人のうち片岡ら6人は、「都市計画大阪地方委員会」にかかわっていました。政府が膨張する都市の近代化のために当時の6大都市ごとに組織した委員会で、大阪委員会は1920年に発足しました。このことからも学園創設の目的が大阪の都市計画と密接であったことが分かります。

 常翔歴史館に当時の大阪市の2つの都市計画図(復刻版)が展示されています。1枚は1919年、もう1枚が1928年のもので、まさに学園創設の1922年をはさみます。その2枚の都市計画図を見比べると、10年足らずの間にいかに大阪市が急成長しようとしていたかが明らかになります。御堂筋の拡幅だけでなく、地下鉄や運河などのインフラ建設計画が大阪市全域に及んでいます。

 大阪市の都市計画の歴史を研究する岡山敏哉・大阪工大建築学科教授がこの都市計画図を寄贈しました。岡山教授は「1919年の設計図は東京の市区改正を準用したもので、内容は道路計画です。この設計案を審議するメンバーに片岡安先生が加わっています。その後、片岡先生の働きかけで1919年に都市計画法が公布され、大都市の整備が進められますが、大阪において整備する都市施設を道路だけでなく、地下鉄や運河なども含めて総合的に決めたのが1928年の都市計画図で、いわゆる都市計画のマスタープランと呼べるものです。私が注目するのは公園計画で、片岡先生が公園などを担当する委員会の委員長を務めています。服部緑地や城北公園などが緑色で示されていますが、公園を点在させて配置するだけでなく、日本で初めて公園道が計画されました。これだけの計画を実現するためには現場を監督するような多くの技術者が足りなくなるのは明らかで、この2枚の都市計画図からも学園の創立の大きな目的がその人材育成であったことが分かります」と話します。

 関西工学専修学校は1922年10月1日に開校式を行い、誕生しました。大阪市外豊崎町(現:大阪市北区豊崎・本庄町周辺)の第五尋常高等小学校の旧校舎を借りた仮校舎での出発となりました。土木科、建築科の2科で夜間部のみの募集でしたが、働きながら学べて、短期間(予科1年、本科1年、高等科6カ月)に実務、学術、技能を学べる利点から、予想を上回る受験生があり、計589人の生徒が集まりました。



関西工学専修学校仮校舎(1923年ころ)

関西工学専修学校の生徒たち





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