日中戦争から太平洋戦争終戦までの時代は、学園の教育も戦争に翻弄された。多くの教職員が徴兵で取られ、生徒らの軍事教練が強化されていった。1945(昭20)年6月7日の大阪大空襲で南方校舎は全焼、高射砲陣地のあった城北校舎も大きな被害を受けた。学園の出来事 社会の出来事ハワイ真珠湾攻撃、太平洋戦争に突入戦禍に遭った大宮校舎 高射砲陣地が構築されていた大宮校地は空襲の標的に。1945(昭20)年6月に被災。南方校舎は全焼した。関西工学校の製図授業風景 大宮校舎の本館4階の製図室で。1941(昭16)年頃。採鉱冶金科増設 国策に沿って1941(昭16)年9月に関西工業学校に設けた採鉱冶金科の分析実験風景(南方校舎)。報国団誌の発行 太平洋戦争遂行のため学校も報国隊結成。従来の「校友会誌」も「報国団誌」に改称された。城北校地(現、大宮校地)に完成した鉄筋校舎 南方校地が狭隘となり、城北公園(1934年開園)隣接地の大阪市東淀川区豊里町(現、旭区大宮・中宮)に5,000坪の新校地を購入。1936(昭11)年11月に鉄筋コンクリート造り3階建て校舎が完成した。周辺は土地区画整理中で空き地が広がっていた。軍事教練 ガスマスクで着剣銃を構えて軍事教練する関西工学校の生徒たち。戦時下の学園創立20周年記念式典 式典は1941(昭16)年6月、大宮校舎講堂で開かれた。ゲート前には銃剣を付けた小銃を構えた生徒らが立番した。式典の半年後に太平洋戦争が勃発。1936関西工学校が城北校舎に移転1940関西高等工業学校が開校(後に大阪工業大学に発展)1941城北校舎に陸軍高射砲陣地1942関西高等工業学校を摂南高等工業学校に改称1944摂南高等工業学校を摂南工業専門学校に改称1937盧溝橋事件から日中戦争に1938国家総動員法公布1941大学・専門学校・実業学校の修業年限を3年に短縮1945日本がポツダム宣言を受諾し終戦グライダーの演習 1941(昭16)年6月。1935(昭10)~1945(昭20)戦争期
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