常翔学園FLOW100号
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ようといろいろ工夫しました。まず第1回学内レガッタを企画。学長杯や理事長杯を設け、実業団チームにも参加を呼びかけて大川で2日間にわたって開催しました。素うどん1杯が60円くらいの時代に、参加費は1艇500円でしたが、計90艇が参加しました。この企画は成功しましたが、それでもまだ予算は足りず、次に軽音楽部にも協力してもらい人気のダンスパーティーを企画し、何とか活動費を確保することができました。学生課長がとても褒めてくれたのがうれしかったです。これでまともなクラブ運営ができるようになったと思います。─今の主将にはどんな苦労がありますか?日後学長杯の学内レガッタはまた復活したいと考えていますが、今はコロナ禍で身動きがとりにくいのが一番の悩みです。<入部のときはボート経験者でもない私の「漕ぎたい!」という気持ちを先輩方や同期に受け入れていただきました。……「ボートはエイトやフォアを漕ぐこと」と漠然と思い、具体的に何もできなかった私にシングルスカルという種目があることや、その後師匠となる方に引き合わせて頂いたりと、数少ない女子でもボートが漕げるようにと道をつけてくださったのは先輩方でした。本当に感謝しています。……>=「創部50周年記念誌」(2007年発行)より辻 私のころは女子の漕ぎ手は5人いました。やはり女性なりの苦労はあったようで、4人漕ぎの重いボートを担いで土手を上るのをよく見ていました。そもそも女子学生が少ないのでその時の人数によって、フォアが組めたりシングルスカルしかできなかったりします。たのですか?小川 高校からボートをやっていてとても生意気だったと思います。シングルスカル(1人漕ぎ)で勝ちたいと言っていました。ボートの月刊誌を読んだり、講習会に行って自己流の漕法を研究したりしました。淀川という素晴らしい環境があったので、他大学のボート部のエイトやフォアを見つけると並走してどこまでシングルで付いていけるか試したりもしました。自分をギリギリ追い込むことも目標に、競技時間の約8分間を想定し、終わったら立てないくらいに自転車のマシンを漕いだり、レッグプレスを一番重いのに設定して300回やったりしました。非科学的なこともやっていたかもしれませんが、楽しみながら自分を追い込むことを心掛けました。他大学から「小川は1日に2000メートルを20本漕いでいる」とでたらめなうわさが出るほど、思いついたらすぐに淀川に出ていました。日後そんな練習したら私たちなら1週間で体を壊しますよ。09FLOW|No.100|October, 2022女子選手のために男子部員がバイトし赤いシングルスカルを購入─選手としての初の女性部員はいつごろ誕生したのですか?平家 女子マネジャーは1974(昭和49)年ころにはいらっしゃったと思いますが、その後は絶えて私が2年の時の1981(昭和56)年に2人の女子マネジャーが入って来てその後はずっと続いています。漕ぎ手としての初の女子部員は、私が主将の時の1982(昭和57)年に1年生の泉知子さんが入部されました。8人乗りや4人乗りの練習を男子と一緒にはなかなかできないので、1人乗りのシングルスカルのボートを買いたいとOB会にお願いしました。ところが女子の漕ぎ手に対する抵抗を感じるOBが多い時代で、お金を出してもらえませんでしたので、現役部員がみなでアルバイトしてお金を貯めて、ヤマハのグラスファイバー製の赤いシングルスカルを買いました。ところがシングルスカルを男子部員は誰も漕いだことがなく教えられませんでした。そこで淀川の対岸に艇庫のある神戸大に当時いらした小西さんというアジア選手権にも出たような女子選手にお願いして一緒に練習させてもらいました。泉さんはその後、1985(昭和60)年の朝日レガッタ女子シングルスカルで準優勝しました。泉さんが手記で感謝をつづっています。SNSとは比較にならない生で見る迫力─現役部員からOBOGの皆さんに聞いてみたいことはありますか?渡辺 私たちは陸上のトレーニングで漕力を測定できるローイングエルゴメーターという器具を使っていますが、それがなかった時代はどうやって漕力を測っていたのですか?100年を越えて伝統のバトンをつなぐ大阪工大漕艇部 卒業生・在学生座談会ギリギリまで自分を追い込む─元インカレ優勝者の小川さんは、大学時代にどんな練習をしていクルーの一体感が次元の違う舟の動きを生む活動資金確保のために学内レガッタやダンスパーティー─主将経験者のお二人は主将としてどんな苦労がありましたか?平家 私の時代は部員の少なさが悩みで、コーチも不在で弱かったです。とにかく新入生を勧誘して部員を増やすという使命感がありました。強くなろうといろいろ我流で研究もしましたが、今から思うと理にかなった練習が全くできていなかったと思います。4年の朝日レガッタに向けた合宿中に、その後日本ボート協会理事やロンドン五輪強化委員長になられた相良彰敏さんに出会い、臨時コーチをお願いすることができました。それをきっかけにその後も長くコーチをお願いすることになりました。漕艇部の強化に少しは貢献できた部分かと思います。私は2010年から監督もしましたが、その時にも相良さんに大変お世話になりました。瀬川入部した時、ボートはなくオールが4本あるだけでした。週に1回4人漕ぎ(ナックルフォア)のボートを外部から借りる状態が2カ月続きました。夏にやっと初代の新造エイト(「重吹」と命名)を買ってもらえたのですが、それまでは陸上の練習ばかりで10人いた同期が3人に減っていました。3年になって主将の座を後輩に譲る段階になって、部に全く予算がないことが分かりました。そこでそれを何とかし

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