<学園は大正11年、関西工学専修学校として誕生した。それは当時の工業教育振興という時代の要請により、今でいう社会人教育のための夜間課程として出発した。これが文字どおりの建学の理念であり、建学の精神である。その後、65年の歩みの中で学園は今日の偉容を誇る規模に発展した。そこで、建学の精神の現代への具現化としてつぎの五条からなる建学の綱領が樹立された>=65年史第7章「21世紀をめざして」 こうして「建学の精神の現代への具現化」は達成されましたが、肝心の「建学の精神」は明確な言語化がされていませんでした。50年史では、第1章四の「建学の精神と校風」の中で「将来の発展を志向するわが学園の『建学の精神』ともいうべきものは如何なるものであったろうか」と考察されています。夜間授業による社会人教育から出発し、工業技術者養成に取り組んだ歴史を振り返ったうえで、<この「時代の流れに即応して実践的学術的技能を有し誠実にして堅実な技術者を養成する」という一筋の道にとり組んできた心構えこそ、わが学園の「建学の精神」にほかならないと思われる>と“推測”しています。つまり「建学の精神」については、ことあるごとに話題にはなっても、それを明確にはしていなかったのです。学園が「工学」一色から次第に「総合」化していったのが明確化しにくかった理由の一つでしょう。建学の精神が正式に言語化されたのは2003(平15)年に就任した東松孝臣第9代理事長によって設置された「業務改革推進委員会」の取り組みまで待たなければいけませんでした。「建学の精神」は2004(平16)年12月の理事会、評議員会で承認されました。その後、多少の文言の変更を経て現在の形になりました。 建学の精神=世のため、人のため、地域のため、理論に裏付けられた実践的技術をもち、現場で活躍できる専門職業人を育成する。最終回にあたり読者の皆さんの「常翔史の理解度レベル」を測るクイズ「常翔史検定」をお届けします。これまでの「100年“モノ”語り」で答えが書かれているものもあります。得点合計であなたのレベルを判定します。クイズ1学園が誕生したのは1922(大正11)年です。第1次世界大戦の特需で商業都市から工業都市へ変貌する大阪を支える技術者育成の要請に応えるものでした。当時の大阪は「〇の都」と呼ばれていたでしょうか?=初級レベル(2点)A:鉄の都 B:水の都 C:煙の都クイズ2 学園の初代校長、片岡安(1876〜1946年)は都市計画家であるとともに、数々の近代建築を手がけた建築家でした。片岡が設計した有名なホテルはどれですか?=中級レベル(3点)A:琵琶湖ホテル B:奈良ホテル C:帝国ホテルクイズ31949(昭和24)年に新制大学として開学した大阪工大ですが、その3年後に大学の応援歌が生まれました。学友会(学生自治会)が作詞・作曲を依頼したものです。作詞は詩人の西条八十=写真は直筆原稿=ですが、作曲者は?=中級レベル(4点)A:古賀政男 B:信時潔 C:古関裕而クイズ4 関西工学専修学校設立時の12人の理事の1人、清水熈(ひろし)(1877〜1943熈(ひろし)(18771943年)は、大阪市電気局高速鉄道技術部長や高速鉄道建設部長として地下鉄建設の陣頭指揮を取りました。50年、100年先を見据えた地下鉄を目指し「過剰」とも批判された斬新な駅を生みましたが、その梅田〜心斎橋間の駅の設備になかったものは?=上級レベル(5点) A:10両編成の車両が停車できるプラットホームB:視覚障害者用の点字ブロックC:ドーム型天井やエスカレータークイズ51986(昭和61)年に制定された学園章は、自然界に多大な富をもたらす太陽のフォルムに、永遠に流れ続ける河をイメージし、学問の進歩を表すデザインです。色は上下のグレーに挟まれたブルーが印象的ですが、このブルーを学園では「〇〇ブルー」と呼んでいるでしょうか?=上級レベル(6点)A:トラストブルー B:インディゴブルー C:スカイブルー 100年の軌跡を、次の奇跡へとつなげるために今こそ、創立から変わらない建学の精神を胸に刻み、未来へと継承していくことが、私たちの使命です。偉大なる先人からの学びと感謝の心を両翼に、学校法人常翔学園は100年先の大空を目指して飛翔しています。 2022年10月30日、学校法人常翔学園は創立100周年を迎えます。常翔史検定に挑戦しよう!August, 2022|No.99|FLOW30■あなたの常翔史レベルの判定 得点合計= ? /20点満点 ■0〜5点=喝! ■6〜10点=残念 ■11〜15点=まずまず ■16〜19点=あっぱれ ■20点=名人問1答:C戦争でアジア市場から撤退した欧米諸国に代わり日本の輸出が急増。アジアに近い大阪は工業化が一気に進み、「東洋のマンチェスター」として成長。工場の煙突が林立し、煙が大阪の空を覆った。問2答:B奈良ホテルは奈良県奈良市高畑町にある、1909(明治42)年10月に営業開始した名門ホテル。本館は日本近代建築の父と呼ばれる辰野金吾とその弟子の片岡が設計した。問3答:A古賀政男(1904〜78年)は、「酒は涙か溜息か」や「影を慕いて」などで知られる昭和を代表する流行歌作曲家。信時潔は大阪工大大学歌の作曲者。問4答:B御堂筋線は、地下鉄1号線として1933(昭和8)年5月20日に梅田〜心斎橋間3.1kmで部分開業。当時の車両は1両編成だったが、長いホームはその後の乗客増に効果を発揮した。問5答:A学術的信頼と人間の相互信頼を表現する色とされている。ちなみに上下のグレーは「ウォームグレー」と呼び、メインカラーの信頼を優しく、穏やかに包み込む環境(学園)を表す。建学の綱領と建学の精神 65年史(1987年)からは、50年史、60年史のA6判より大きなA4判になり、活字組も縦組みから横組みになりました。その体裁の変更だけでなく、中身にも60年史までとの大きな違いが2つあります。まず、あいまいだった学園創設史を見直し、関西工学専修学校は「設立者・校主の本庄京三郎、校長の片岡安」と12人の理事が創設にかかわったという歴史が確認されたこと。2つ目の違いは「建学の綱領」です。 建学の綱領は創立65周年を機に行われた寄附行為(学校法人の根本規則)改正の一環だったので、当然50年史と60年史にはありません。この「建学の精神」などを浸透させるために、その中身を映像化したDVD「TSUKURU Only One」=写真=が全教職員に配付されました。「建学の精神」の言語化の取り組みは80年史以後のことになるので、100年史で初めて詳細に書かれます。組織も周年史も成長 2008年に大阪工大高が常翔学園高に校名を変更し、それに続いて法人名自体も常翔学園に変更されました。したがって「常翔学園史」と名乗るのは100年史が初めてです。 組織がスクラップ&ビルドを繰り返しながらも大きく成長し、その年史も膨らみ続けてきました。常翔学園の100年史は、単なる出来事の積み重ねではなく、時代時代の学園の人々の喜怒哀楽の積み重ねでもあります。ずっしりと重い1世紀です。
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