常翔学園FLOW97号
22/24

年“モノ”語り」21FLOW|No.97|March, 2022れが学園広報宣伝第 関西工学専修学校の生徒募集広告が出たのが開学の僅か1カ月前だったというのは現代の常識では驚きです。それでも「予想を上回る受験生があり」(80年史)、ほぼ予定の募集人数に近い589人が入学しました。今では考えられないほどの新聞の影響力も寄与したようです。日清戦争(1894〜95年)後に日本の資本主義は大きく発展し、都市化、教育水準の向上も相まって新聞も一気に発行部数を増やし、1922年頃にはおよそ2世帯に1部の普及率でした。ラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年からで、戦前の広告媒体としての価値は新聞が圧倒的でした。学園が新たな学校を設立するたびに、学生・生徒募集広告が新聞に掲載されました。1969年に学研の学習雑誌「高三コース」(5月号)に載った大阪工大の広告(左)1922年9月1日の大阪毎日新聞に掲載された関西工学専修学校の生徒募集広告(右)2017年4月の阪急大阪梅田駅ジャック広告学園センテニアル企画centennial11「常翔あの手この手学園広報宣伝の変遷新聞広告に始まり、ラジオ・テレビへもネットや梅田駅ジャックの交通広告も常翔学園の始まりの関西工学専修学校の名前が世間に知知られた最初は1922(大正11)年8月31日の大阪毎日新聞聞朝刊地域版に載った「関西工学専修学校が10月1日開校」という小さな記事でした。翌9月1日からは大阪毎日、大阪朝朝日、大阪時事の各新聞に繰り返し生徒募集広告が掲載され、これが学園の広報宣伝の第1歩となりました。それ以後、学園の発展と共にその広報宣伝の量は増大し、その手法は新聞、雑誌からラジオ、テレビ、インターネット、各種交通広告など時代と共に多様化してきました。数々残る広告などを手掛かりに学園設置各学校の広報宣伝の歴史を振り返ると、その宣伝文句やキャッチコピーからも時代や学園の姿が浮かび上がってきます。今年10月30日の学園創立100周年に向けた連載企画の第11回のテーマは「学園広報宣伝の変遷」です。「工業教育の殿堂」を地味にアピール 1949(昭和24)年に新制大学の1つとして発足した大阪工大(当初の名称は摂南工業大)ですが、戦後は新聞に加えて雑誌が広告媒体として重視されていきました。常翔歴史館に残る資料では、高校生向として重視されていきました。常翔歴史館に残るけの学習雑誌の「蛍雪時けの代」(旺文社)や「高三コー代」ス」(学習研究社)などス」に定期的に広告を掲載しに定ていたことが分かります。ていただし、その中身は学校ただ名を強調するだけのごく名を地味なもので、今で言う地味キャッチコピーとしては小キャさい文字で「工業教育の殿堂」とあるだけです。18歳人口が多く、学生募集にまだそれほど困らなかった時代背景があります。「入り易く、出難い大学」を売りに“週休2日制”にも全国から注目 摂南大が開学した1975(昭和50)年は、テレビ広告費が新聞広告費を初めて上回った年でした。広告媒体の多様化が進み、その中身も大量消費時代の広告を脱して、質重視の成熟時代に入り始めていました。テレビCM自体が話題を生むことも多く、CMディレクターが映画監督のように注目を集めるようになっていました。 そんな時代の開学ですからただ単に校名をアピールするだけの宣伝では社会へのインパクトはありません。他大学との違いを出すために摂南大が当初アピールしたのは、「入り易く、出難い大学」や「週5日制の授業」などでした。残念ながら当時のポスターや広告は残っていませんが、学校案内の「教育方針と特色」の1番目に挙げられたのが「入り易く、出難い大学」という見出しです。「受験戦争」という言葉が生まれて、その弊害が叫ばれていた時代に、欧米の大学のように入学してからの勉強を重視するというこのキャッチコピーは、それなりにインパクトがあったと思われます。 更に「週5日制の授業」、つまり週休2日制も注目されました。官公庁が完全週休2日になったのが1992年で、公立小中高校では2002年ですから、その先進的な取り組みで、ニュースになりました。 朝日新聞(1975年4月12日東京夕刊)が、「摂南大学が週休二日制 寝屋川 ミッション系除き初めて」の見出しで報じました。一般ニュースに取り上げられるというのは、最も効果的な宣伝であり、このアピール戦略は成功したことになります。 ちなみに現在は履修の仕方が多様化し、週5日制授業という制度は取っていません。

元のページ  ../index.html#22

このブックを見る