*注1【THE世界大学ランキング】高等教育機関をさまざまな指標によって順位付けした国際的な大学ランキングの1つ。元々は英国「タイムズ紙」の付録冊子だったが、その後タイムズから分離し、独立した専門誌となった。論文引用データベースはオランダのエルゼビア社の「Scopus」。国際性を重視するため非英語圏の大学には不利という批判もある。他に著名なランキングとして「QS世界大学ランキング」、「世界大学学術ランキング」、「CWUR世界大学ランキング」がある。*注2【GAPファンド】事業化に向けた試作品製作や実証のためのファンド。*注3【研究プラットフォーム群】研究力強化と学際的な新研究分野の開拓を目的に今年度設置。教員らの研究プロジェクトの学内公募を実施し、審査の上2020年度は13件を採択。上位5件に総額800万円の研究助成を行う。大阪工大の分野別ポイント工学分野では801~1000位に THEは10月28日に学術分野別世界ランキングも発表。大阪工大は「Engineering(工学)」分野で801~1000位にランクインしました。同分野にランクインしたすべての大学は1098校で、日本からは77校がランクインし、大阪工大は関西の大学で京都大、大阪大に続く3位タイ(私立大学では1位タイ)となりました。 32位:東京大 56位:京都大 71位:東京工業大 75位:東北大 176~200位:名古屋大、大阪大 201~250位:九州大 251~300位:北海道大301~400位:筑波大、早稲田大 601~800位:広島大、法政大、香川大、慶應義塾大、九州工業大、室蘭工業大、信州大、東京農工大、東京医科歯科大、東京理科大 801~1000位:神戸大、京都工芸繊維大、大阪市立大、大阪工業大、大阪府立大、立命館大 1001+位~:同志社大、兵庫県立大、関西大、近畿大強化につなげます。SDGsを意識し2025年の大阪・関西万博にかかわる研究を支援していきます。 研究支援部門が主体となって、これまで以上に教員の研究をサポートし、研究ブランディング向上に努めます。イノベーション・ジャパンだけでなく、本学の研究をアピールする場として本学独自の智と技術の見本市である「イノベーションデイズ」や大阪商工会議所と梅田キャンパスで展開する都心型オープンイノベーション拠点「Xport(クロスポート)」などを活用していきます。学内ベンチャー企業設立を支援し、近い将来に大型研究を推進するために必要な「オープンラボラトリー施設」を整備します。■英国の大学への留学経験のある学長が、世界の大学と比べて日本の大学に不足していると感じられるものは何ですか?益山 文部省在外研究員として1996年、スコットランドのエジンバラにあるヘリオット・ワット大学に留学しました。保守党政権が労働党政権に移行する混乱期で、大学を取り巻く状況も大きく変わろうとしていました。印象深かったのは、当時から大学が“Reputation”、つまり外部評価=大学ランキングをとても意識していたことです。ランキングで国からの予算が左右されるとも聞きました。ランキングを上げる有効な方策は、質の高いジャーナルに研究成果を掲載することだと言われていました。四半世紀近く前から外部評価を上げることに力を注いでいたことになります。日本がその点で遅れているのは明らかです。また、日本の大学が世界と肩を並べるためには、一層の国際化が必須です。学生の海外派遣、留学生や海外研究者の受け入れを強化しなければいけません。採択数上位10大学5位7位7位9位9位山梨大岡山大立命館大九州工業大静岡大11件10件10件9件9件1位2位3位4位5位大阪工業大工学院大兵庫県立大鳥取大大阪府立大31件27件23件14件11件02November, 2020 | No.90 | FLOW※同一ランク帯内は、英語名称のアルファベット順(801位以降は近畿2府4県の大学を記載)共同記者会見で連携強化を誓う岡山敏哉大阪工大副学長(右)と小田啓二神戸大副学長=9月24日、大阪工大梅田キャンパスで15.1教 育研 究国際性被引用論文産業界からの収入22.010.922.036.0*総合ポイントは大阪工大で独自集計総 合教 育研 究被引用論文産業界からの収入国際性16.9515.1 10.9 22.0 36.0 22.0 イノベーション・ジャパンで採択数全国1位 今年はオンラインでの開催となった「イノベーション・ジャパン2020~大学見本市Online」(9月28日~11月30日)の「大学等シーズ展示」で、大阪工大から31件の研究シーズが採択され、採択数全国1位になりました。昨年の採択数22件(全国2位)から大きく伸ばし、大阪工大の存在感をアップさせました。1位は2018年に続く2回目です。大学の“知の見本市”とも言われ、毎年新しいシーズを探す企業と大学研究者との出会いの場になっています。大阪工大とコニカミノルタが共同開発してヒットした世界初の体臭チェッカー「クンクンボディ」もイノベーション・ジャパンでの出会いから生まれました。神戸大と連携、大学発ベンチャー起業支援 大阪工大は神戸大と大学発ベンチャーの起業支援を連携して取り組むことを9月に発表しました。JST大学発新産業創出プログラム「社会還元加速プログラム(SCORE)大学推進型」に共同で応募し実施機関として京阪神で唯一採択されたものです。JSTから2024年度末まで、両大学合計で毎年最大7800万円の支援を受け、この中からファンドも運用します。両大学の研究や技術の中からビジネスとして有望な案件を見つけ、知的財産戦略やビジネスモデルの策定、試作品製作などで支援して起業につなげる狙いです。 大阪工大の強みの大阪商工会議所など産業界との連携や全国で唯一の知的財産学部の知見と神戸大が得意の基礎研究分野や経営分野などお互いの力を合わせることで、より効果的に有望な技術の発掘や起業支援につながると期待されています。 大阪工大発のベンチャー企業は現在4社で、今後10年で10社の起業を目指します。実就職率ランキングでも全国2位 大学通信「2020年最新実就職率ランキング《卒業者数1000人以上》」で大阪工大は昨年度から順位を1つ上げて全国2位にランクインし、就職の強さでもアピールしました。3月卒業・修了者から進学者数を引いた1430人のうち就職者数は1403人で、実就職率98.1%でした。 紺空に響くホヰツスルの音、弾丸の様に飛び来り飛び行く楕圓形のボールが緑芝の園、白線あざやかな地面に落ちると、忽ち十数の敵味方が密集して、根限りの押合ひ揉合ひ、一ツのボールをめぐつて力と力、意氣と意氣との物凄い渦を巻き起し、やがて一方に掻き出されたボールは瞬時に味方のバツクメンによつて、まつしぐらに敵陣に突進するスリクオーター陣!! 身ををどらして飛びつき様にひきたほす敵、あわやと思ふ瞬時に投げられたボールを手にする敵味方!!……肉と意氣との相搏つ音、地を蹴る響き、ウインタースポーツの玉座として君臨せるラグビー競技……絕対服従の神聖なるレフエリーによつて擧行され、フアインプレーの感歎詞を連續的に持續せしむるものはラグビーならでは……本春早々に呱々の聲(産声の意味)を擧げるや……練習と修練を重ね創設後未だ半年を出でずして、日本ラグビー蹴球協會の加盟チームとなり……飛躍期に入らんとしつゝあり……地獄のタックル練習 飛躍を目指したラグビー部ですが、実際はかなり苦戦を強いられたようです。当時、旧制中学は5年制でしたが関西工学校は4年制でした。このため最上級生が5年生と4年生という差によるハンディは大きく、<創部より10年間、関工ラグビー部員は4年を卒業する際、せめて他校の様にもう1年残れたらと無念の涙を呑み乍ら、グラウンドを去って行った>(50年誌)と書き残されています。淀川の堤防近くの合宿所「青雲寮」で寝起きしながら、目の前のグラウンドで猛練習する日々だったようです。再び50年誌のOB寄稿文からです。<特に毎日かかさずやらされたタックルの練習は今思い出してもぞっとする程すごかった。…部員約30人程が大きな輪になって、その中心に1人が身構えると円の周囲にいる者が順次中心に向って真っしぐらに走ってくる……やっと1人を倒したと思ったらもう次の者が猛然と走ってくる。脳震盪や負傷者が出ても、おかまいなしに練習は休みなく続けられた> =福井英夫(1941年卒)<「関工魂はタックルから」と口ぐせにどなる先輩……小さな私等何度やっても倒れてくれない、……正に地獄の苦しみであった> =戸田弘光(1943年卒) 猛練習の結果、1939年の大阪・奈良・紀和地区予選大会ではベスト4となるなど徐々に力をつけていきましたが、戦争が部員らに重くのしかかっていきました。裸足の試合写真は、日本の敗色が色濃くなっていた1943年、花園ラグビー場で開かれた大阪府大会1回戦の対浪速中戦で撮られたものです。<非常時臨戦体制下では、スポーツ用具の配給等は全く無くユニフォームは古い物を持ち寄り、自宅で染め直し、やっと同色の15枚を作り上げ府大会に参加出来た。勿論シューズ等は無く両軍「はだし」で戦う。楕円のボールはつぎだらけでデコボコで有った>(50年誌)。裸足で楕円球を追いかけたこの試合が戦前最後の試合でした。終戦の年に早くも試合 1945年8月15日の終戦。空襲で焼け野原の広がった大阪でしたが、驚くことに関工ラグビー部はすぐに再始動しました。1カ月も経ずに、復員してきた部員やOBらが淀川河川敷で練習を始めたのです。ただ、復員できていない部員も多く、戦死した部員もいて、OBを中心に現役も加わった「城北クラブ」という混成チームを結成しました。試合ができる相手チームもまだ少ない中で、1945年12月9日、快晴の西宮ラグビー場で北野中(現:大阪府立北野高)の現役・OB混成「六稜クラブ」との試合が実現しました。終戦から4カ月も経っていませんでした。結果は0-11で敗れましたが、常翔ラグビーの原点である関工ラグビーが復活を遂げた日となりました。 22November, 2020 | No.90 | FLOW常翔歴史館に史料のご提供を………………………………松浦清館長 “モノ”で歴史を語るのが常翔歴史館の使命です。そこで学園創立100周年に向けて大学・学校、ご自宅のどこかに眠る史料のご提供をお願いします。古いものを廃棄処分にしようという時も、安易に捨てないで一度それが史料にならないか考えてください。特に貴重なものでもなく、昔はありふれたものだったとしても貴重な歴史の“証人”になる場合があります。もし気になるものがあればぜひ常翔歴史館までご一報ください。☎ 06-6955-7762 e-mail:Rekishikan@josho.ac.jp〒535-8585 大阪市旭区大宮5丁目16番1号■注1【秩父宮雍仁(やすひと)親王】1902~53年。昭和天皇の弟。スキーやラグビー、登山などのスポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれ、秩父宮ラグビー場にその名前が残る。■注2【西部ラグビー蹴球協会】1925年にできた関西ラグビーフットボール協会の前身組織。■注3【関西ラグビー倶楽部】慶応大ラグビー部の関西在住のOBらが中心となって1919年に設立。大学や旧制高校のチームを破る実力で知られ、中学や高専チームの育成、指導の活動も。■注4【日本でのラグビー起源】BBC(英国放送協会)の昨年の報道によると、日本在住の歴史研究家マイク・ガルブレイス氏が、「日本にラグビーが初めて伝えられたのは1899年、エドワード・クラーク(慶應大語学講師)と田中銀之助という英ケンブリッジ大学の卒業生2人によるもの」という通説を覆した。ラグビーチームが横浜で設立されたと書かれた1866年の文献を発見。昨年9月には、「日本で最初のフットボール(ラグビー)発祥地 横浜」と書かれた記念碑ができた。ただ、外国人ではなく日本人自身がラグビーを始めたのは、クラークらに指導を受けた慶応大生たちだったようだ。■ 創部から41年後に全国制覇 元関工ラガーらの熱い視線も 1978年、全国高校ラグビーフットボール大会で大阪工大高が念願の全国初優勝を果たしました。1937年の関工ラグビー部誕生から41年後のことでした。1963年にラグビー部監督に就任した荒川博司監督(1938~2001年)=写真左=の指導が実を結んだのです。野上友一・現ラグビー部監督=写真右=に荒川監督のことやOBとのつながりなどについて聞きました。̶大阪工大高を全国の強豪チームに育て上げた荒川監督は何を変えたのですか?野上 それまでのどちらかというとサークル的なラグビー部に専属コーチを置くなどしっかりした指導体制を整えたことです。それと各中学校とのつながりも築いていきました。̶荒川監督の教えで大事にされていることはなんですか?野上 荒川監督は「自分のチームだけが強くなるのではなく、みんなで強くなったらええ」と言って、大阪の高校ラグビー全体のことも考え、交流を盛んにして切磋琢磨する土壌を作りました。そのおかげで大阪の高校ラグビーに強豪チームがひしめくようになったのです。例えば国体に出るチームも他県なら強い単独校がそのまま代表になりますが、大阪は本当に各校からメンバーを選抜したチームを作るようになりました。だから常翔学園高は今も他校から合同練習を求められればどんなチームでもすべて受け入れています。̶関工ラグビーとのつながりを感じることはありますか?野上 最近、1938年に関工ラグビー部で副将だった方の息子さんから手紙をいただきました。お父様が今年101歳で亡くなられたとのご報告と部へのご寄付をいただきました。その手紙には、還暦を過ぎてもOBチームでラグビーを楽しんでいたことや、後輩たちが花園で活躍する姿をテレビにかじりついて熱心に見て喜ばれていたことなどが書かれています。棺にはラグビーボールを一緒に入れたそうです。こんな手紙をいただくと、ラグビーを愛し、後輩たちのチームを見守ってくれている卒業生たちとのつながりを強く感じ、もっと頑張らなければという励みになりますね。たちまかこ ここえあかいきょぞくぞくなが
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