常翔学園FLOW89号
3/28

に曲の依頼の記事があります。1951年11月4日付臨時号の1面の片隅の記事です。<若き情熱の高唱、応援歌はカレッヂライフの謳歌でもある。インターカレッヂ華々しい昨今、学友会に於て、作詞作曲に一万円、渉外費七千円を決定し、目下作詞者を選定中で、西條八十氏に依頼の予定> 1951年当時の大卒公務員の初任給は5500円。ラーメン25円、コーヒー30円の時代です。1万円は作詞料だけなのか作詞作曲合わせてなのか、この記述でははっきりしません。しかし、作詞料だけと考えても今の感覚からすると売れっ子作詞家にはかなり安いと感じます。学生主体の学友会の依頼なので格安で引き受けた可能性もあります。 西條や信時の年譜を調べると、全国各地の高校や大学の校歌を手掛けていることが分かります。何十という数です。新制の高校や大学が次々に生まれ、そのどれもが校歌を作ることになった時代ですから、有名作曲家や作詞家・詩人に依頼が集中したようです。 応援歌は無事に卒業式までに完成。卒業式当日の1952年3月27日付の大阪工業大学新聞1面では、「待望の応援歌成る」の見出しの囲み記事で楽譜と歌詞を紹介しています。<我等若人の熱と意気そのもの、この応援歌…は今後、本学選手達が…競技場に堂々の駒を進める時、又白熱した球場等に青紺の大団旗と共に強敵を圧し本学選手達の士気を大いに鼓吹するであろう>学園創立30周年の背景に緊張した時代 応援歌ができた1952年は学園創立30周年でもありました。朝鮮戦争(1950年6月25日~53年7月27日休戦)の真っただ中で、国際情勢が騒然とする一方、日本はその軍需景気で戦後復興のきっかけをつかもうとしていた時代でした。1952年7月10日付の大阪1952年3月27日付の大阪工業大学新聞1面の囲み記事工業大学新聞は「創立三十周年に当って」との社説を掲載していますが、その中の一節です。<視界を国外に転ずれば、朝鮮動乱を契機として、米ソ間の緊張が伝えられるや、全世界の視聴はクレムリンとホワイト・ハウスの一挙一動に集中し、全人類を挙げて第三次世界大戦の恐怖に戦(おのの)いているが…(対立の根底には富の分配があるから)…工業の進歩による全人類の生活水準の向上は、緊張を緩和する大きな要素たり得る…> 第2次世界大戦の爪痕がまだあちこちに残り、戦争への逆戻りがまだ身近な恐怖だった時代に、工業を学ぶ学生として平和を守ろうとする真剣な思いが伝わってきます。応援歌を高唱する学生たちを取り巻く環境は今とは全く違っていたのです。 26August, 2020 | No.89 | FLOW常翔歴史館に史料のご提供を………………………………松浦清館長 “モノ”で歴史を語るのが常翔歴史館の使命です。そこで学園創立100周年に向けて大学・学校、ご自宅のどこかに眠る史料のご提供をお願いします。古いものを廃棄処分にしようという時も、安易に捨てないで一度それが史料にならないか考えてください。特に貴重なものでもなく、昔はありふれたものだったとしても貴重な歴史の“証人”になる場合があります。もし気になるものがあればぜひ常翔歴史館までご一報ください。☎ 06-6955-7762 e-mail:Rekishikan@josho.ac.jp〒535-8585 大阪市旭区大宮5丁目16番1号■ 西條八十(さいじょう・やそ)=1892-1970年。東京出身の詩人、フランス文学者。童謡や歌謡曲の作詞家としても活躍。1919年の第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立。フランス留学後に早稲田大文学部教授。歌謡曲の作詞家としては「青い山脈」「蘇州夜曲」「誰か故郷を想わざる」「ゲイシャ・ワルツ」「王将」など数多くのヒット曲を放った。児童文芸誌『赤い鳥』などで活躍し、北原白秋と並ぶ童謡詩人と称された。■ 古賀政男(こが・まさお)=1904-78年。昭和を代表する流行歌作曲家。国民栄誉賞も受賞した国民的作曲家で、「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「湯の町エレジー」「東京五輪音頭」など5000曲近い作品は「古賀メロディー」として親しまれた。朝ドラ「エール」で主人公古山裕一(古関裕而がモデル)の作曲家友達「木枯正人」のモデル。■ 信時潔(のぶとき・きよし)=1887-1965年。大阪市で牧師の子として生まれ、賛美歌に親しむ。東京音楽学校(現・東京芸術大)からドイツに留学後、母校の作曲科教授になり、多くの著名作曲家を育てた。戦後は作曲活動が減ったが、本来の意図と離れて「海行かば」が軍国主義に利用されたことに抵抗できなかったことを恥じたとも言われる。■ 竹友藻風(たけとも・そうふう)=1891-1954年。詩人、英文学者。京都帝国大で上田敏に師事、渡米してコロンビア大で英文学を修める。関西学院大、大阪大の教授を歴任。典雅な詩風で知られた。ダンテ「神曲」を完訳。大阪出身。■ 平井康三郎(ひらい・こうざぶろう)=1910-2002年。東京音楽学校(現・東京芸術大)で教えながら作曲活動を始め、歌曲「平城(なら)山」や童謡「スキー」などで知られる。文部省教科書編纂委員として音楽教科書編纂にも携わる。合唱曲も多く手掛け、小中学校の校歌の作曲も多い。合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音楽大教授などを歴任。■学校のイメージで変わる曲想 2案あった広島国際大大学歌 広島国際大大学歌を作曲した禅定佳隆・常翔学園中高音楽教科教諭(常翔ホール館長を兼務)に大学歌や校歌の作曲の面白さや難しさを聞きました。 ―大学歌を作曲することになった経緯は?禅定 当時の藤田進理事長から直々に要請されました。既に理事長が書いた歌詞は完成している状態で、副題の「われらが使命」も付いていました。―校歌や大学歌を作る時に一番注意することは何ですか? また暗黙のルールの ようなものがあるなら教えてください。禅定 その学校や大学の特色からイメージを膨らませます。例えば何を学ぶのか、どんな人材を輩出しようとしているか、学生に男子あるいは女子が多いなどでも曲想は変わります。ルールと言えるほど決まったものはないですが、大人数が声をそろえて歌いやすいものにというのはあります。速すぎるテンポや、難しい転調は避けますね。逆に付点リズムで生き生き感を出し、サビの部分で少し音を跳躍させるなどして盛り上げるような工夫もします。―広島国際大大学歌で苦労されたことは どんなことですか?広島国際大大学歌摂南大大学歌禅定 曲作りはそんなに時間はかかりませんでした。むしろ現在の大学歌とは全く違うタイプの曲も用意していたほどです。新しい大学は医療系の大学と聞いていたので、女子学生も多いだろうと考えて、8分の6拍子という流れの良いメロディーのものでしたが、それまでの大学歌とはだいぶイメージが違っていたためか、こちらは採用されませんでした。ただ私自身はそちらの方が気に入っていましたね(笑)。―大阪工大と摂南大の大学歌はどうですか?禅定 大阪工大の作曲者の信時潔も摂南大の平井康三郎も日本を代表する作曲家です。それを見ても大学創立時の関係者の意気込みが分かりますね。おい高速道路工事の現場で打ち合わせをする阪本さん(右) 「トンネル工事現場は女人禁制」などというのは今は昔の話で、女性技術者も増え始めた土木工事の現場を生き生きと飛び回っている近畿建設協会の阪本仁美さんは摂南大都市環境システム工学科(現:都市環境工学科)の卒業生です。国と民間企業などの間に立って道路工事や河川工事などのスケールの大きな事業をマネジメントする仕事では、「事業を円滑に進めるためコミュニケーションをうまく取っていくのもこの仕事の醍醐味です」と話します。 阪本さんが摂南大の都市環境システム工学科に進学したのは、「土木、建築以外にも幅広い分野の勉強ができそうと感じたから」と言います。勉強を始めてみると、「物理が得意だったので構造力学などの授業が楽しいと感じている自分に気付きました」と振り返ります。更に大学3年の時に起きた東日本大震災をきっかけに構造力学のゼミに入り、橋梁の免振支承設計の研究に打ち込みました。 就職は人生の大きな分岐点と考え、業界・業種にとらわれずに就職活動しましたが、「やはり大学での勉強を生かせる業界で頑張りたい」という気持ちを再認識し近畿建設協会に。同協会の仕事の多くは高速道路や河川改修など大規模事業が多く、橋梁などの重要構造物の点検にも携われます。「大学の先輩も多く、女性が長く働き続けられそうというのも決め手でした」と話します。 技術者として入職しましたが、最初の3年間は経営企画部で収支データの分析や社内研修・講習会の計画・実施、公益事業などに携わりました。特に助成金を出した大学教授らによる研究助成発表会では2年目から上司に代わって司会進行役を任され、300人近い聴衆を前にマイクを握りました。人に臆さない明るい性格も手伝って次の年も任されました。「意外と楽しく、そこで知り合った外部の方から後で声を掛けてもらえることもありました」。新たな挑戦が人脈を広げることにつながっていきました。 その後は大阪支所、2年前から技術管理部で近畿一円の道路事業の進捗管理などマネジメント業務を担当。事業着手から完成まで10年以上が当たり前の息の長い仕事で、行政機関、コンサルタント、施工会社、警察など関係機関の調整役の中心で活躍。その業務の1つ「すさみ串本道路事業監理業務」が国土交通省近畿地方整備局の局長表彰を受けました。「自分がかかわって完成した高速道路で自ら車を走らせる時の達成感は何とも言えないですね」と笑みがこぼれます。 現在担当しているのは大阪都市再生環状道路に残るミッシングリンク約8.7㎞(大阪市北区~門真市)の「淀川左岸線延伸部」事業です。慢性的な渋滞の緩和につながる道路ですが、「住宅密集地ですので地下70mという大深度地下にシールド工法でトンネルを掘るという道路事業は日本で2例目の工事になります」と声を弾ませ、「この事業を間近で見られることに技術者としてワクワクします」と目を輝かせます。 そんな前向きな阪本さんからは、「与えられた仕事は、まずやってみることです。尻込みせずに『じゃ、やります』と言って仕事をしてきたことが私の成長につながっています」と後輩たちにアドバイスを送ります。大学での構造力学との出会いも新人時代に司会役を引き受けたことも、自分ではあまり気付いていなかった自分を発見し、新たな道が開けるチャンスにつながったからです。■さかもと・ひとみ 2012年摂南大学工学部都市環境システム工学科(現:理工学部都市環境工学科)卒。同年近畿建設協会に技術職として入職。経営企画部、大阪支所を経て2018年から技術管理部。土木学会認定1級土木技術者(施工・マネジメント)。技術士補(建設部門)。測量士補。中学、高校時代はバスケットボール部。奈良県出身。大深度地下でのトンネル工事(シールド工法)の説明図の前で02August, 2020 | No.89 | FLOW阪本 仁美 さん近畿建設協会 技術管理部チーフスケールの大きな道路事業の調整役で奔走技術者としての達成感を糧に新たな挑戦も

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る