常翔学園 FLOW No.86
11/24

 これらを総合すると、「長期戦になれば米国の経済動員により日本もドイツも勝てない」との分析を示すとともに、「独ソ戦が短期で終われば、少なくとも英国に勝つことは可能かもしれない」という見方も示しています。 従来、こうした情報は「一流の経済学者らが分析した高度なもので一般には知られていなかった」と思われてきました。しかし、その経済学者自身が同じような内容を当時の「改造」などの総合雑誌に投稿していましたし、メディアもその分析を利用したと思われる書籍(東洋経済新報社『列強の臨戦態勢―経済力より見たる抗戦力』1941年12月)を出版していました。つまり「極秘」でもなんでもなく、外部に発表しても問題視すらされなかった常識的な情報だったのです。これが焼かれずに資料が残っていた理由です。行動経済学と社会心理学で分析 それなら、正しい情報が指導者に共有されていたのに、なぜリスクの高い開戦に踏み切ったのか、というのが大きな疑問になります。 私の仮説は、報告書や他の多くの研究で「開戦すれば高い確率で敗北する」という指摘がされていたこと自体が、「だからこそ低い確率に賭けてリスクを取っても開戦しなければならない」という意思決定の材料になってしまった、というものです。この逆説を説明するのが、行動経済学のプロスペクト理論と社会心理学の集団意思決定の集団極化の理論です。 プロスペクト理論を説明します。aとbの2つの選択肢を考えます。 bの損失の期待値はマイナス3200円(マイナス4000円×0.8+0円×0.2)で、aよりも損失が大きくなります。合理的ならaを選ぶはずです。しかし、実験ではbを選ぶ人が多いのです。つまり、「人間は、損失を被る場合にはリスク愛好的な行動を取る」のです。これが2002年にD・カーネマンがノーベル賞を受賞したプロスペクト理論です。人は財が増えるのと減るのとでは、減る場合の方に価値を置き、そのため損失が出る場合は、その損失を小さくすることを望むのです。つまり確率は低くても、損失が0円になる可能性があるbを人は魅力的に感じてしまうのです。 このaとbの状況は、1941年に日本が2つの選択肢(AとB)を迫られた状況と酷似しています。 つまりプロスペクト理論に基づけば日本の指導層は、「現状維持よりも開戦した方がまだわずかながら可能性がある」というBのリスク愛好的に走ってしまったと言えるのです。プロスペクト理論はもともと個人の選択の理論ですので、国家という集団意思決定のメカニズムも説明する必要があります。集団になるとリスクの高い極端な方向に意思決定が偏向してしまうのを説明するのが社会心理学の集団極化の理論です。 当時の日本の戦争指導層は、陸軍、海軍、政府の合議で、強力なリーダーシップを取れる人物はいませんでした。「船頭多くして船山に登る」という意思決定システムだったのです。「集団の意思決定では、集団のメンバーの平均より極端な方向に意見が偏る」というのが集団極化です。その原因は、(集団規範に合致する)極端な意見の方が存在感を高め、魅力的になり、集団のメンバーも説得されがちになるというのです。皮肉なことに「冷静な独裁者」のいなかった日本の指導層の集団意思決定で、よりリスクの高い選択が行われてしまったと言えるのです。 開戦の説明としては単純化し過ぎていると自分でも感じていますし、当時の議論や利害の分析が更に必要ですが、新しい議論の「叩き台」は示せたかなと思います。読者からの反応では、特に多くの企業人から「企業の中で同じようにリスクの高い選択をしてしまうことがある」などと共感を得ています。目先にとらわれぬビジョンと選択肢を 現在の世界を見ると自国ファーストやポピュリズムが台頭し、リーダーシップを取れる国も見当たりません。世界大戦に突入していった1930年代と似ていると言われます。一方、ネットの世界では新しい情報が次から次へと入ってくるために、人々が目先の利害に走りやすく、また、すぐに敵か味方に色分けし極端な意見が幅を利かせます。選択肢の幅が狭く、ハイリスクな選択をしやすい状況です。 意思決定があと数週間遅れていたら日米開戦はなかったのではとも言われます。「このままではジリ貧になる」ではなく「待っていれば国際環境が良くなる可能性もある」という選択肢を当時の指導者や研究者が見出せていたら、開戦回避ができたかもしれません。当時の失敗を教訓にすれば、長いスパンで考え、データに基づきつつ地に足の着いたビジョンやさまざまな選択肢を提示することが現代の経済学者に求められていると実感します。『英米合作経済抗戦力調査』の主な要旨●英米が合作すれば、米国の供給で英国の供給不足を補えるので戦争遂行に耐えうる●米国は電気の自給力が十分で英国への援助物資生産に弱点なし●米国の石油は英国の不足を補って余りある●英米合作は第3国に70憶ドルの軍需資材を供給できる●ただし、最大の供給力を発揮するには、開戦後1~1年半の期間を要する●英国船舶を月平均50万トン以上撃沈できれば、米国の対英援助を無効にできる●英国の弱点は島国であることから食料や工業原料の供給を海運に依存することa=確実に3000円支払わなければならない。b=8割の確率で4000円支払わなければならないが、2割の確率で1円も支払わなく   てよい。A=1941年8月以降は米国の資金凍結・石油禁輸措置により日本の国力は弱って  おり、開戦しない場合、2~3年後には確実に「ジリ貧」になり、戦わずして屈服する。B=国力の強大な米国を敵に回して戦うことは非常に高い確率で日本の致命的な敗北  を招く(ドカ貧)。しかし非常に低い確率だが、ドイツがソ連に短期間で勝利し、  英米間の海上輸送を寸断し、日本が東南アジアを占領して資源を獲得して国力を  強化して英国が屈服すれば、米国の戦争準備が間に合わず、講和に応じるかもし  れない。『独逸経済抗戦力調査』の主な要旨●ドイツの経済抗戦力は1941年がピークで、その後次第に低下する●英米長期戦に耐えるにはソ連の生産力を利用することが必要。労働力不足と食料に悩み、ウクライナからの農産物供給が必要。石油もソ連のバクー油田からの供給が必要●対ソ戦が長期化すれば経済抗戦力は加速度的に低下し、対英米長期戦遂行は不可能に●独ソ開戦以降、ソ連と英米の提携が強化されるため、日本はその包囲網突破の道を南に求め、生産戦争、資源戦争を遂行するべきだ10November, 2019 | No.86 | FLOW牧野准教授のこれまでの著書(左が読売・吉野作造賞受賞作)

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る