常翔学園 FLOW No.85
6/28

 今年2月、ラグビーU20(20歳以下)の日本代表チーム監督に就任した水間良武さんは、大阪工大高(現:常翔学園高)、大学、社会人とどのチームでも主将を任されるほど並外れたリーダーシップの持ち主です。高校日本代表以外は選手として日本代表になれなかった分、「日本代表チームの指導者に」と声が掛かった時は、「ぜひやらせてほしい」とすぐに引き受けたと言います。指導で最も強く求めるのは、ラグビーを楽しみ友達をつくること。ゲームの勝ち負けよりもっと大きな視野で若い選手らを見守っています。 小学校で柔道をしていた水間さんは、中学校でラグビー部に入りました。「友達と一緒に体を動かすのが楽しそう」と始めたのですが、やがてラグビーにはまっていきました。「強いチームでやりたい」と大阪工大高に一般入試で入学しラグビー部へ。主将を務めた3年の時に全国高校ラグビー優勝を果たしました。「チームを勝たせないといけないという思いから誰に対しても理不尽なほど厳しいキャプテンでした。今思えば笑いとか余白の部分が全くなかったですね」と笑います。野上友一監督とは卒業後も師弟の交流が続き、毎年母校のグラウンドを訪れます。「『正直者であれ』という常翔ラグビーの教えは身に染みています。ラグビーへの情熱が衰えない野上監督は今も指導者としての目標です」と話します。ポジションは高校から一貫してフォワード。その中でもスクラムのかじ取り役で最前列中央のフッカー(HO)を長く務めました。ボールがラインアウトした時のスローワーも任される大好きなポジションでしたが、そのスクラムの組み過ぎで腰を痛め、我慢を重ねたことで、同志社大や社会人時代はずっとけがに苦しむことにもなりました。けがのためU23代表合宿に呼ばれても行けないという苦い経験もし、結局日本代表の桜のジャージを着ることなく2009年に選手を引退し、プロ指導者の道に進みました。「だから日本代表には強いあこがれがあり、U20監督の依頼があった時は本当にうれしかったです」と振り返ります。 監督就任後はキャンプ、大学チーム回り、遠征、選手発掘などで日本全国や世界を飛び回っています。水間さんが目指すラグビーは「ボールにたくさん触って、それをスペースに浮かし、たくさんタックルしてボールを取り返し、またアタックすること」とシンプルです。具体的なU20の目標には、ワールドラグビーU20チャンピオンシップへ再昇格することを掲げています。もちろん長期的には4年後以降のラグビーワールドカップに出て世界と戦える選手を育成することです。ただ若い選手には「ラグビーを楽しみ、友達や仲間づくりをしろ」ということを最も強く言います。選手、コーチ時代を通じて世界中にできた人とのつながりが今の水間さんを支えているからです。「人生はラグビーをやめた後の方が長く、その時に社会に貢献できる人材になってほしいのです。そのために大切な友達や仲間ができるのがラグビーの最大の魅力です」と話します。 生きるためにはゼロから1を生み出す創造力と問題解決能力の2つが必要と考える水間さん。後輩たちには「何に対しても本気で楽しめ。ただしそのための準備を怠らないこと」とアドバイス。「私はチーム指導でも問題を想定して、その解決策として常にプランB、C、Dまで準備します」という指導のプロならではの人生訓です。水間 良武 さんラグビーU20日本代表監督■みずま・よしたけ1996年大阪工業大学高校(現:常翔学園高校)卒。同年ラグビー部主将として第75回全国高校ラグビー大会優勝。2000年同志社大学商学部卒。同大ラグビー部でも主将を務め、2000年に全国大学ラグビー選手権で3位。2000年度関西学生代表チームでも主将。卒業後は社会人リーグでプレー。2003年プロに転向。三洋電機ワイルドナイツでは2007年度から2009年度日本選手権3連覇。2009年に選手引退後は9年間パナソニック ワイルドナイツでアシスタントコーチを務めながら、日本代表のスポットコーチなども務めプロ指導者の経験を積む。2019年から現職。大阪府出身。世界中に友達ができるラグビーその魅力と楽しさを伝えたい海外キャンプで現地の選手らと(右から2人目)U20日本代表のフォワード陣を指導する水間さん(中央)スクラムをチェック04August, 2019 | No.85 | FLOW巻頭特集活躍する卒業生■急成長する大阪市現場技術者の不足と人材育成のための工業教育の要請こうした時代を背景に常翔学園は誕生しました。不景気が始まっていたとはいえ、大阪市をはじめ大都市が急成長し、市民生活がどんどん近代化されていった時代です。関西工学専修学校設立時の校主の本庄京三郎、校長の片岡安、理事12人の計14人のうち片岡ら6人は、「都市計画大阪地方委員会」にかかわっていました。政府が膨張する都市の近代化のために当時の6大都市ごとに組織した委員会で、大阪委員会は1920年に発足しました。このことからも学園創設の目的が大阪の都市計画と密接であったことが分かります。 常翔歴史館に当時の大阪市の2つの都市計画図(復刻版)が展示されています。1枚は1919年、もう1枚が1928年のもので、まさに学園創設の1922年をはさみます。その2枚の都市計画図を見比べると、10年足らずの間にいかに大阪市が急成長しようとしていたかが明らかになります。御堂筋の拡幅だけでなく、地下鉄や運河などのインフラ建設計画が大阪市全域に及んでいます。 大阪市の都市計画の歴史を研究する岡山敏哉・大阪工大建築学科教授がこの都市計画図を寄贈しました。岡山教授は「1919年の設計図は東京の市区改正を準用したもので、内容は道路計画です。この設計案を審議するメンバーに片岡安先生が加わっています。その後、片岡先生の働きかけで1919年に都市計画法が公布され、大都市の整備が進められますが、大阪において整備する都市施設を道路だけでなく、地下鉄や運河なども含めて総合的に決めたのが1928年の都市計画図で、いわゆる都市計画のマスタープランと呼べるものです。私が注目するのは公園計画で、片岡先生が公園などを担当する委員会の委員長を務めています。服部緑地や城北公園などが緑色で示されていますが、公園を点在させて配置するだけでなく、日本で初めて公園道が計画されました。これだけの計画を実現するためには現場を監督するような多くの技術者が足りなくなるのは明らかで、この2枚の都市計画図からも学園の創立の大きな目的がその人材育成であったことが分かります」と話します。関西工学専修学校は1922年10月1日に開校式を行い、誕生しました。大阪市外豊崎町(現:大阪市北区豊崎・本庄町周辺)の第五尋常高等小学校の旧校舎を借りた仮校舎での出発となりました。土木科、建築科の2科で夜間部のみの募集でしたが、働きながら学べて、短期間(予科1年、本科1年、高等科6カ月)に実務、学術、技能を学べる利点から、予想を上回る受験生があり、計589人の生徒が集まりました。24August, 2019|No.85|FLOW常翔歴史館に史料のご提供を………………………………松浦清館長 “モノ”で歴史を語るのが常翔歴史館の使命です。そこで学園創立100周年に向けて大学・学校、ご自宅のどこかに眠る史料のご提供をお願いします。古いものを廃棄処分にしようという時も、安易に捨てないで一度それが史料にならないか考えてください。特に貴重なものでもなく、昔はありふれたものだったとしても貴重な歴史の“証人”になる場合があります。もし気になるものがあればぜひ常翔歴史館までご一報ください。☎ 06-6955-7762 e-mail:Rekishikan@josho.ac.jp〒535-8585 大阪市旭区大宮5丁目16-1道路のほか運河(青色)や公園(緑色)、地下鉄(オレンジ色の破線)なども書き込まれた1928年の「大阪都市計画図」(部分)都市計画図について語る岡山教授関西工学専修学校仮校舎(1923年ころ)関西工学専修学校の生徒たち校友会誌創刊号 学校設立の2年後(1924年12月)に発行された「関西工学専修学校 校友会誌」の創刊号=写真=が常翔歴史館に残されています。学園最初の「広報誌」とも言える中身で、教員らの最新研究について紹介する「研究欄」が全体の4割近くを占めています。今回は、当時の若い校友がつづったエッセイを紹介します。街づくりでどんどん増える電信柱についてユーモアあふれる文章でつづったもので、技術者の卵の誇りと気概が伝わってきます。「 断片 」 厳として直立せる電柱君よ 君は四辻の曲角に或は郊外の道端に立ちて、千古不変の姿を風雪に曝すも、而も一言の不平だに漏さず、君を利用する各種の音信を公平に、厳密に、規則正しく仲介をする。…真夏の昼下り、瘠狗(痩せ犬の意味)の…君に小便を注ぐも、(下駄の歯にはさまった)雪を落さんと、君を土足にかけ(ても)、…総て仲介の労を惜まない。一言の叱咤をも與へず、…総てを目(黙)認する。実に、君の如く堪忍袋の大且つ弘きはあらざるべし。…君は大哲学者よ、大聖人よ。…(土木本科第一期 村上正典)かまがりかどさらせき くおしあたすべしか

元のページ  ../index.html#6

このブックを見る