現地に赴き、己の目で見て、真実を探求する
ライトにまつわる研究は「終点のない旅」

建築史家 フランク・ロイド・ライト研究室主宰   谷川 正己   さん

谷川 正己 さん:建築史家 フランク・ロイド・ライト研究室主宰

PROFILE
1953年大阪工大建築学科卒。アメリカの建築家フランク・ロイド・ライト研究の第一人者で、フランク・ロイド・ライト主宰。元日本大工学部教授。1996年日本建築学会賞受賞、2014年同会名誉会員就任。工学博士。滋賀県出身。

アメリカが生んだ世界屈指の建築家フランク・ロイド・ライト。ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」とも称され、日本では旧帝国ホテルや旧山邑邸などの設計者として知られています。ライト研究の第一人者である谷川 正巳さんは、大阪工大を卒業後、大学などで教壇に立つ傍ら、長年に渡り現地に赴いては自らの目で建築物を確かめ、国内外の資料をひもとき、ライトに関する史実を探り続けています。ライトとその弟子の遠藤 新が設計し、1921年に女学校として誕生した自由学園明日館(東京都豊島区)で、谷川さんに話を伺いました。

大阪工大建築学科の第1期生ですが、どのような学生時代、また教員時代をお過ごしでしたか。

谷川

私はとにかく勉強が好きでしたね。大学は講義を聞くところではなく、論文を書くために来ているという意識でした。先生と意見が対立しても、とことん調べて勝つくらいでしたよ。貧しい中でせっかく大学に進学させてもらったのだからと、工学部第II部(夜間)の講義も聴講させていただきました。自宅は滋賀県大津市でしたので、朝早く出ないと1限目の講義が聞けません。朝7時には家を出て、帰ると日が変わっていました。でも、それは私にとって「楽しい事」でした。

大阪工大を卒業後、高校の教師になりました。当時は土曜・日曜の他にもう1日休みが取れたため、聴講生として大阪大文学部で西洋古代建築史を、関西学院大文学部で音楽美学を学びました。一度大学を卒業しているので、教授の助手もしました。

勉強は面白かったけれど、私は「日本一になりたい」と思っていました。このままでは無理だと思い、高校教師を辞めて、思い切って東京へ出ることにしました。建築芸術学の学会発表をされた助教授の元へ行けば助手にしてもらるかもしれないと、夜行列車に乗り、駅に着いたその足で横浜国立大へ向かいました。ちょうど浅草寺本堂を設計した大岡 實氏が工学部で教授をされていて、「そんな殊勝な若者がいるのなら助手で使ってやろう」と建築学教室でお世話になることになったんです。お金もないままに上京した上に、当時子どもが生まれたばかりだったこともあり、横浜にあったアメリカ軍の施設でアルバイトをしながら生計を立てました。

その後、日本大工学部の教員になられたわけですが、ライトに注目されたのはそのころですか。

谷川

日本大第2工学部の教員にと声を掛けてもらったのを機に、福島県郡山市に引っ越しました。当時の研究者たちは皆、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエなど、欧州の建築家に関心を持っていて、アメリカはまだ新興国だからと注目されていませんでした。でも私が近代建築を積極的に手掛けようとしたのは、あえて新興国だからということでライトに着目しました。現物を見もしないで西洋建築史や近代建築史を語るのはダメだと思っていたところ、ありがたいことに海外派遣研究員の募集があったんです。すぐに手を挙げて3ヵ月間、ライト作品を調査するために渡航しました。

アメリカやヨーロッパの建築界は、芸術うんぬんと言うよりも、け落とし合いの部分があります。実際、ライトの建築物を見ることもしないで自分は弟子だなどと語る人もいました。彼の自叙伝に書かれていることも私は信用していません。例えば、自叙伝には関東大震災の際に「東京が一木一草に至るまで焼け野原になっているところで、あたなが建築した帝国ホテルだけが残っている。おめでとう」と弟子がライト宛に打ったとする電報に記されています。しかし、実際は帝国ホテルもダメージを受けています。「真実はそうではない」ということを、現地の新聞や日本の文献などからも調べて探っていく作業は面白く、終わりがありません。

ライト作品の魅力とは、どのようなところになるのでしょうか。

谷川

甲子園会館(旧甲子園ホテル。兵庫県西宮市)
日本に数少ないライト式の建築であり、国の近代化産業遺産および登録有形文化財に登録されている。

欧米人が発想しえないユニークさが魅力です。例えばこの自由学園明日館。ここの柱形(はしらがた)の中は空洞(ほんがら)で、日本人はそれを好みませんでした。柱の太さはそのままで、余計な手を掛けず、そのままの姿が美しいというのが日本人の考え方です。ライトはそのことに気付かず、「ちょっと変わったものを作れば日本人は喜ぶだろう」というところまでしか考えが及んでいませんでした。日本人の好みに合わせてアレンジしたつもりで作った結果、空洞になったのです。日本は平屋建てから2階、3階建てへと、上に上に建物を伸ばしてきました。ライトが住んでいたのは砂漠のような広がりがある土地で、建物に高さを必要とするような場所ではなかったからでしょう。

東洋人と西洋人、美的感覚も同じ訳はありません。例えば日本の神社仏閣はすごいと思いませんか。私は日本人の美的感覚を高く評価しようとして、それに収束していくように外国人の作品を見る癖がついているけれど、京都の桂離宮や三重の伊勢神宮などの建築物に驚いて「大した国ではないか」と関心をもった外国人は大勢いるでしょう。日本の建築物に開眼した最初の人間がライトだったのではなく、ライトは誰かから「日本に行ってみろ」と助言され、その人が語る日本の建築物の面白さを確かめるためにやって来たのだと思います。その助言者は誰なのか、また、外国人が感じる日本の建築物の魅力はどのような英知が働いていたのか、東洋の先人たちの功績が、世界の近代建築をリードしているとは考えられないのかなど、ライトを通して今でもそんなことばかり調べているんですよ。

昨年、日本建築学会名誉会員に就任されました。歴代の名誉会員にはそうそうたる建築家が名を連ねています。後に続くべく学びを深める後輩たちにメッセージをお願いします。

谷川

昨年11月に祝賀会を開いていただいたのですが、みんなが集まることは良いことです。日本建築学会の東北支部長をしていた際にお世話になった方々にも会えました。

私は鉄道での旅行が好きで、学会出張の機会を利用して、各地の建築物を見て回りました。例えば秋田に行ってみたいと思ったら学会の会場になった時に行ったり、関西に行きたくなったら、大阪での研究発表に向けて論文を書いたり、そうやって各地を旅しました。だから、日本中に勉強好きの友人が大勢います。

今の若い後輩には、建築物はそこに存在するのだから、写真ではなく、自分の目で実際に見てほしい、そう思います。そして他の建築(史)家が何と言おうと、自分の感性で素晴らしいと思ったら褒めてください。現地の人がその建築物をどのように褒めているかまで確かめなければ、本物の建築(史)家とは言えないのではないでしょうか。

【TOPICS】

日本建築学会 名誉会員受称記念祝賀会を開催

昭和初期に建てられた歴史ある建物の趣きが漂う銀座ライオンビル(東京都中央区銀座)を会場に、昨年11月22日、谷川氏の日本建築学会名誉会員受称を祝う祝賀会が開かれました。大阪工大の卒業生として初めてのことで、偉大な先輩が輝いた栄誉に同大学建築学科の寺池 洋之教授をはじめ関係者約30人が駆け付けました。

記念講演会で谷川氏は、自分は勉強好きで、研究とは生涯続けていくものだという信条を披露し、「研究するには少し歳をとってしまったなとも思いますが、まだまだ調べたいことが山ほどあります」と語り、参加者を驚かせました。続く懇親会では、参加者たちが代わる代わるに祝いの言葉を掛け、にこやかに談笑されました。

歴代の名誉会員には、大阪工大の前身である関西工学専修学校の初代校長・理事長 片岡 安をはじめ、そうそうたる建築家が名を連ねています。

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