若者よ 根拠なき自信をもって前に進め
踏み出す勇気と本物の力をつける努力を

熱帯JAZZ楽団リーダー   カルロス 菅野   さん

カルロス 菅野 さん:熱帯JAZZ楽団リーダー

PROFILE
本名、菅野真吾(しんご)。1980年3月大阪工業大学経営工学科卒。1984年「オルケスタ・デ・ラ・ルス」に参加、その後リーダーに。1995年「熱帯JAZZ楽団」結成。2008年から大阪芸術大学客員教授として「ラテンミュージック概論」を担当。東京都出身。

四半世紀前、サルサ※1バンド「オルケスタ・デ・ラ・ルス」のリーダーとして世界を熱狂させ、その後もラテン・ジャズの実力派ビッグバンド「熱帯JAZZ楽団」を率いて国内外で活躍するカルロス菅野さん。大阪工大在学中から始まったミュージシャン生活も40年近く、60歳が見えてきた今も若い人から刺激を受け続けています。「枯れていくわけにはいかない」。音楽への情熱はまだまだあふれ出ています。

「デ・ラ・ルス」時代は、ビルボード誌(アメリカの音楽雑誌)11週連続1位、日本レコード大賞特別賞、NHK 紅白歌合戦出場、グラミー賞ノミネート、国連平和賞受賞と音楽家として一気に頂点に登りつめました。

そんな菅野さんの音楽人生の始まりは横浜の中学でのフォークグループ。広島の高校ではロックバンドを組み、大阪工大では軽音楽部へ。先輩に誘われ、プロのバンドのボーカルとして大学2年の時には音楽でいくらか収入を得る生活を始めていました。当時はディスコ全盛時代で、夜はミナミの人気店で「ヒット曲からディープなソウルまで何でも歌いました。この経験で音楽の素地がつきました」

4年の時、たまたま手に入れたコンガ(ラテンの打楽器)を見よう見まねで叩いていましたが、ニューヨークから楽器のプロモーションで来日した「ラテン音楽の神様」ティト・プエンテらの生の打楽器演奏を聴いて「目からウロコがボロボロ落ちる」衝撃を受けました。「これだ」。本物のラテン音楽との出会いでした。それからは「ちゃんとした奏法を身に付けよう」と東京から来るミュージシャンに付いて回り、必死で情報を集めました。便利なインターネットなどなく、自分から求めなければ何も得られない時代でした。

その秋、プロのミュージシャンになると決意。「親には申し訳なかったですが就職活動はしませんでした」。その代わり大学は4年でちゃんと卒業しようと必死で卒業研究に取り組みました。テーマはやはり音楽にまつわる「楽器の新素材の可能性」。経営工学科のゼミの教授も温かく送り出してくれました。

卒業後はいろいろなアルバイトをしながらパーカッション奏者として下積みを続けました。東京と違って大阪にはレコード会社がなく、ミュージシャンの仕事も簡単にはありません。「強い思いがないと音楽を目指せない。大阪という場所が大事なことを教えてくれた」。28歳で上京し「デ・ラ・ルス」に参加。ニューヨークで人気に火が付き、その後5年間は1年の半分を海外ツアーという生活が続きました。「アメリカでヒスパニック系移民の世代交代が進み、伝統のサルサを聴かなくなりつつあったところへ東洋から来たバンドが『サルサは素晴らしい』とやったもんだから、みんな感激したのです」。南米ではどこへ行っても大ブレークしていて「飛行機を降りたらレッドカーペット」という国賓級の歓迎でした。

そんな「デ・ラ・ルス」の活動で一度は燃え尽きかけたのですが、しばらくしてもっとできることがあると立ち上げたのが「熱帯JAZZ楽団」でした。その楽団も今年で20周年※2。実力派ビッグバンドとして人気は不動ですが、メンバーの合言葉は「目指せ、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(アメリカとキューバの老ミュージシャンたちのラテンバンド)」。枯れていくだけではよしとしない。「今でも街で若いストリートミュージシャンの素晴らしい演奏に出会うと、少しのお金と『一緒にやろう』と書いた名刺を置いてきます」。50歳を過ぎ現在は大阪芸術大で教壇に立ち、後進の指導にも力を入れています。

若い後輩たちへのアドバイスは「とにかく根拠のない自信でいいから前に進め。ただし根拠がないということは忘れるな」。踏み出す勇気と本物の力を身に付ける努力を忘れないでほしいと強く願っています。

※1 サルサ=ラテン音楽の一つ。スペイン語のソースを意味し、いろいろな音楽が混ざって形成されたことから命名された説があるように、ラテン音楽にジャズやソウルミュージックが融合されている。

※2 20周年記念ツアーの西日本での予定=2015年9月11日(金)大阪サンケイホールブリーゼ▽2015年9月12日(土)広島三原市芸術文化センターポポロ。20周年記念アルバム「熱帯JAZZ楽団ⅩⅦ~The Best from Movies~」発売中。

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